うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

朝の月と、働き方の変化に対応するために「没入型体験」を設計しなさいと、【最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が倫理性を生みだし、これが良心において表現され、さらに欲動の断念を促進するのである」】

f:id:ka-gu:20210303192146j:plain

 またまた、1日遅れのアップになりました。昨日の朝の月です、肉眼でも表面が見える様な感じでした。

 

 下記はカタカナが多いですが、カタカナをググれば(笑)、簡単な内容でした。自分たちが日々行っていることも含まれていました。
  

●構造化されたセレンディピティ

 最後に、5つ目のデザインドライバーであるセレンディピティとは、別のことを探求している時に偶然、素晴らしい何かに遭遇することを意味する。

 きちんと設計されたイマーシブな体験は、それを構成するフォーマルな交流とインフォーマルな交流の絶妙なバランスによって、セレンディピティの瞬間をもたらす豊かな素地をつくる。

 こうした素地をつくるプロセスには、参加者の多様性や教育的プログラムの種類、さまざまな同僚とつながる機会、フォーマルとインフォーマルのつながりをつくりやすい場所、自省と共有をもたらす空間の確保が含まれる。

 企業買収のスピードアップを図りたい場合には、夕食会や散歩、レクリエーション活動など、構造化されない交流時間をつくるのがよい。そうすることでインフォーマルな交流が促され、個人的なつながりが深まると同時に、重要でクリエイティブなインサイトがもたらされたりすることも多い。

 

 

 今読ませて頂いている、樫村先生の本に『破壊』と『支え』がありました。妄想や幻想(万能感・全能感)を破壊して、不安定になってしまった心を支えるという意味だと思われますが、こちらも自分たちが『妄想-分裂ポジション』から『抑うつポジション』にきちんと着地させるということと同意だと思われます。下記を読ませて頂いていて、ふと思い出しました。

  〜理性」についてもフロイトは次のように記している。「通常は、倫理的な要求が最初にあって、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。

 かしそれでは、倫理性の由来を説明することができない。実際にはその反対なのであろう。

 初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が倫理性を生みだし、これが良心において表現され、さらに欲動の断念を促進するのである」(p.291)。

アトリエ・カーグ作品展と、【フロイトは、道徳と道徳的マゾヒズムをまったく異質のものと捉えるのではなく、両者の連続性、そして道徳からマゾヒズムへの「退行の道」がつねに開かれていることを指摘する。】

f:id:ka-gu:20210302120444j:plain

f:id:ka-gu:20210302144111j:plain

f:id:ka-gu:20210302160900j:plain

f:id:ka-gu:20210302144005j:plain

f:id:ka-gu:20210302144050j:plainf:id:ka-gu:20210302144056j:plain

f:id:ka-gu:20210302160930j:plain

 昨日から豊橋商工信用組合・田原支店さんで、アトリエ・カーグ展が始まりました!ご高覧の程、宜しくお願い致します!


  下記は自分達が学んでいるものですが、下記にはグローバルサウスには触れていませんね。発展途上国に対してはどうフォローしていくのか?SDGsはやはり大衆のアヘンなのでしょうか?それを言っていないとやり玉に挙げられるので、仕方なくやっている感がなくなるまであと何年?途上国はクリアできても発展途上国に押し付けているだでは、全く問題外ですよね?大学院もSDGsを謳っている振りをしておけば(笑)、単位がもらえるのでしょうか? 話が逸れるかも知れませんが、『ヨーロッパはアジアの岬になる』と書いたのは、ヴァレリーでしたでしょうか?

  

 今日は休みでしたが、コロナがまだまだ心配なので、送迎車に少人数で対応させて頂き、窓も雨でもバイザーまでは全ての窓を開けていますので、送迎だけ行かせて頂きました。

 送迎後、精神分析自閉症を読み返しながら、引用させて頂いています。樫村愛子先生の本が今はメインですが、心理学草案が非常に気になって仕方がない日々を過ごして(笑)います。それに関する論文も落としてよみながら!

 その人物の良心の重要な部分という箇所は、現場では抗精神薬で、その人物の持っておられる特徴を決定的に失われてしまっている場面によく遭遇します。薬は自分たちには触ることができないので、ハリー・スタック・サリヴァンが言っていたように、障害(や薬)がなければ、その人物はどんな人格だったのか?を第一に頭に入れてから支援させて頂いています。話が逸れまくりでした。

  〜ロイトは、道徳と道徳的マゾヒズムをまったく異質のものと捉えるのではなく、両者の連続性、そして道徳からマゾヒズムへの「退行の道」がつねに開かれていることを指摘する。

 しかに「倫理性」を維持するためにマゾヒズムが必要悪として利用される場面がありうるかも知れないが、そのことによって、「その人物の良心の重要な部分」が決定的に失われる危険にさらされるという指摘は示唆的である。

 のようにして道徳や倫理の問題は、「いと高きもの」の次元ではすまされないものとなっていく。

昨日撮った写真と、You are Artと、【いろいろな紆余曲折を経て、マゾヒズムの問題は、特殊な病理的現象に限られるのではなく、自我と超自我をめぐる本質的な議論の中心に位置するようになっていったのである。】

f:id:ka-gu:20210301205357j:plain

f:id:ka-gu:20210301205456j:plain

 上の二枚は昨日撮った写真です。なんとなく気に入っています(笑)。下の方は歩いて行ってきちんと写して作品にしたいですね!
 今日も日勤でしたが、午前と午後に通院介助があり、現場にきちんと入れたのは、夕方の男子の入浴介助だけでした。初めて介助させて頂く方がいて、とても楽しみにしていました。普段はあまり笑わない方のようでしたが、入浴介助は良いですね!頭や身体を洗わせて頂いたら、気持ちがよいとニコニコしていただけました。こういう場面があると、この仕事をやらせて頂いて本当に良かったな!と思えます。勿論、それなりの勉強と実践は必要ですが!

 そうそう(笑)。3月でしたね!何日か前から朝に更新するようになっていたので、今日は2つアップしてしまいました(笑)。

 

 下記はネットのニュースを見ていて出会ったものです。SDGsは大衆のアヘンだと個人的には思っていますが、このビデオはそんなこと関係なしに、表現というカテゴリーで見ることが出来ました。障がいをお持ちの方々の寿命は短い場合が多いかも知れませんが、色んなことが出来なくなっても、例えばアートや音楽の分野で、その時々に出来ることで楽しめれば別に良いと思うのは自分だけでしょうか?昔はこんなんじゃなかったって......。いまここで生きていることの方が大事なので、いまここで出来ることでenjoy出来れば良いですよね?未来の為にも今が大事です!

 

 生まれつき耳の聞こえないヒーローは母親の猛特訓により口話を身につけ「普通の学校」で育った。そしてひょんなことから舞台で主役になり、俳優、ダンサーの道を志す。「自分らしく生きられるように」ヒーローが手探りで見つけてきた「普通」の壁への挑戦とは。


  今は何冊か並行して本を読ませて頂いていますが、こちらは読み終わたのに、こちらに意識が来てしまいます。特に樫村先生の本を読んでいるときに!

 その時にはいい思い付きだと思っても、対象が変わったり、環境が変わればまた新しいやり方を考えないといけないことは日常茶飯事ですね。いちいちあの時はああいっていたとか、こういっていたとか言っていたら、変化のスピードがどんどん速くなっている現在について行けなくなってしまいますね。間違いとか、これではもう通じないと思ったら再構築していくしか手立てはないし、また巡り巡って、以前の方法が使用できる時もあるので、振り返りが出来るときにはきちんとした振り返りも必要ですね。下記を読ませて頂いている中で、そんな思いが湧きました。「陰性の治療反応」的なことは現場でも良くありますが、それを相手さんと一緒に抱えて、一緒に乗り越えることが出来ないと、お互いに何も前に進むことが出来ませんし、毅然とした態度が必要な時もあります。

 〜こでフロイトが持ち出してくるのが、先に『自我とエス』で見た「陰性の治療反応」である(p.284)。

 我とエス』の段階では、「陰性の治療反応」を論じる際には未だマゾヒズム概念を用いてはいなかった。ところが、論文「マゾヒズムの経済論的問題」では、「陰性の治療反応」がはっきりと「道徳的なマゾヒズム」の例として取り上げられている。

 徳という一見抽象的な問題と、マゾヒズムという個人的な性や愛と深く絡み合った問題とが結びつけられたのが、「道徳的なマゾヒズム」である。

 に見た『自我とエス』では、「陰性の治療反応」はまず、超自我論との関わりで論じられていた「超自我サディズムと自我のマゾヒズム」の関わりへと議論が進んでゆく(p.291)。


 上、フロイトマゾヒズムをどのような議論の文脈で用いてきたかを概観してきた。いろいろな紆余曲折を経て、マゾヒズムの問題は、特殊な病理的現象に限られるのではなく、自我と超自我をめぐる本質的な議論の中心に位置するようになっていったのである。

昨日のうたたねと、「コロナ後のグレート・リセット」世界のトップが密かに考えている中身と、【 「性愛的なマゾヒズム」、「女性的なマゾヒズム」に続く第三は、「道徳的なマゾヒズム」である。その特徴は、「われわれが性と呼ぶものとの結びつきが緩くなっている点」である(p.284)。】

f:id:ka-gu:20210228164147j:plainf:id:ka-gu:20210228164213j:plain


f:id:ka-gu:20210228154925j:plainf:id:ka-gu:20210228163529j:plain

 


f:id:ka-gu:20210228163326j:plainf:id:ka-gu:20210228163353j:plain

f:id:ka-gu:20210228163454j:plain
  昨日は一昨日と同じような勤務で、送迎と入浴介助と、ギターを弾いていたら、あっという間に1日が終わりました。皆さん笑顔で終われたこと、感謝です!

 

  本当に下記のようになるのでしょうか?今読ませて頂いている、樫村愛子先生の本は2000年前後(2冊同時に読ませて頂いています)のものですが、その時に既に新自由主義に対する批判がありました。SDGsなんかもそれを全面に出さないと企業としてやって行けないからやっている感も否めません。

パンデミック新自由主義の終焉を告げる

今回のパンデミックは、新自由主義終焉しゅうえんを告げるものとなりそうだ。新自由主義は、連帯よりも競争、政府介入よりも創造的破壊、社会福祉よりも経済成長を重んじると大まかに定義される概念や政策の集成である。

新自由主義が志向する「小さな」政府とは逆の)新しい「大きな」政府の重要な要素の一つは、すでに始まっている。ごく短期間のうちに急激に拡大した政府による経済支配だ。

ちょうどパンデミックが世界を覆い始めた2020年4月、世界各国の政府が合計数兆ドルもの景気刺激策を発表した。政府は、社会福祉給付の拡大、国民への直接的な現金給付、賃金の補填、借入金や住宅ローンの支払い猶予などの措置を取った。今後、政府は、社会の利益にとってベストであるとして、程度の差こそあれ、ゲームのルールを一部書き換え、政府の役割を恒久的に拡大させようとするだろう。

 

エッセンシャルワーカーの待遇改善が期待できる

また、このパンデミックの意義(の一つ)は、生活に不可欠で本質的な価値のある仕事に対し、それに見合う報酬が支払われないという、根深い乖離かいりが明らかになったことだ。パンデミックによって私たちが気づかされたのは、コロナ危機のヒーローやヒロインたち、感染者を看病し、経済を動かし続けてくれた人々が、最も賃金の低い職種であったという事実だ。看護師、清掃業者、配達員、食品工場や介護施設、倉庫の労働者などである。
パンデミックが終わったら、少なくとも短期的には、不平等は拡大することが予想される。しかし、当面の危機を乗り越えた後には、風向きが一変し、逆方向へ向かう可能性がある。アメリカでは、多数派や積極的に発言するマイノリティが、医療システムを政府やコミュニティの管理下に置くことを求め、欧州では、医療制度の財源不足がもはや政治的に許容されないという事態になる可能性もある。

私たちはついに、パンデミックにより、本当に価値のある仕事とは何かを再考し、社会に不可欠な仕事に従事する人々に社会としてどう報いるか見直さざるを得なくなるかもしれない。楽観的なシナリオでは今後、私たちの間で、社会全体の福祉に極めて重要な役割を果たしているのは給与が低く不安定な職に就いている多くの労働者であるという認識が高まり、低い報酬を改善するような政策が取られるようになる。

 

president.jp

  樫村愛子先生の本を選んだのは、下記の本の影響です。ラカンが専門のようですが、ラカンを分かりやすく記述してくれているので、初学者には助かっています。竹中先生もフロイトの心理学草案を分かりやすく記述してくれています。固着点とか死語扱いされていますが(笑)、本当にそうなのか?最近特に思います。

   〜ころで「その多くの特徴は、幼児期の生活にかかわるものである」(pp.279.=280)。

  ゾヒズム的な空想の顕示的な内容においては、罪責感が表現されることがあるが、この場合に暗黙のうちに想定されているのは、空想の主体はなんらかの罪を犯しているのであり(罪の性格は不確定なままである)、さまざまな苦痛と拷問の手続きによって、それを償わなければならないことである」(p.280)。

 こで特徴的なのは、まず空想の顕示的内容において罰のイメージが存在し、その背後には罪責感があって、さらにその背後に罪、それも不明確な罪を想定しているという構図である。

 通は、まず罪があって、それが罪責感を生み、罰が生じると考えるのが自然な発想であろう。それとちょうど逆方向の構図が用いられているのである。罪があって罰が生じるのではなく、罰があって罪があるというわけである。

 もあれ、この「罪責感」こそが「幼児期の生活」と関わっているのであり、「この罪責の契機は、第三の道徳的なマゾヒズムへの移行をもたらす」(p.280 )。

  愛的なマゾヒズム」、「女性的なマゾヒズム」に続く第三は、「道徳的なマゾヒズム」である。その特徴は、「われわれが性と呼ぶものとの結びつきが緩くなっている点」である(p.284)。

 まり、抽象度がより高い。「苦痛が愛する人物から加えられようとも無関係の人物から加えられようとも」構わない。「叩かれる見込みさえあれば、自分の頬を向けるのである」。

  なわち、性と愛による特定の個人との関わりに限定されないような抽象的な関わりが主な舞台である。しかし、それにもかかわらずフロイトは、このマゾヒズムもまた性的なものと必ずしも無縁ではないと考える(p.284)。〜 

すろーの湯と、精神科病院で相次ぐクラスターの背景に“難しい感染対策” 現場の看護師に聞くと、【論文「マゾヒズムの経済論的問題」の冒頭部分でフロイトは、「マゾヒズムの対立物であるサディズムとは異なり、マゾヒズムは精神分析の理論にとって大きな脅威となるものである」と述べている(フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」)。】

f:id:ka-gu:20210227201317j:plainf:id:ka-gu:20210227201332j:plain

f:id:ka-gu:20210227150726j:plainf:id:ka-gu:20210227201403j:plain

f:id:ka-gu:20210227201454j:plain

 昨日も日勤で、ギターを弾いたり、男子だけすろーの湯に行きました!まだまだ寒い日が続きますが、明日から3月ですね!

 

 下記のニュースは、障がい者施設でも言えますね。この状況下、身近な施設で日中のカラオケをしている施設がありびっくりしました........。マスクすらキチンと出来ない方が多いのに.......。


  下記を読ませて頂いていて、エビデンスエビデンスと言いながら、即効性を求める社会になっているのは何か矛盾を感じます。フロイトの心理学草案的な、熟考するプロセスの大事さは見て頂けないのか?それは自分達の現場にも言えることです。一つのことをきちんとできるまでに、どれだけの努力をしてそこまでに至ったことは、全く考えていただけませんし、薬で大人しくされているのが、応急処置しかしていない人、施設だけが称賛されている気もしています。

3.道徳とマゾヒズム
 文「マゾヒズムの経済論的問題」の冒頭部分でフロイトは、「マゾヒズムの対立物であるサディズムとは異なり、マゾヒズム精神分析の理論にとって大きな脅威となるものである」と述べている(フロイトマゾヒズムの経済論的問題」)。

 の視点は、マゾヒズムサディズムからの派生物と見なしてきたそれまでのフロイトの考え方とは根本的に異なる。この論文の考察においては「マゾヒズムは三つの異なる姿で登場する」(p.278)。

  一に、「性愛的なマゾヒズム」がある。これはもっとも基本的な形態、言い換えれば一次的マゾヒズム・「根源的なマゾヒズム」である(p.283)。それは端的に言えば、「苦痛の快感」を意味する(p.280)。

  との二つは、一次的マゾヒズムから派生した「二次的マゾヒズム」である(p.283)。

 ず第二は、「女性的なマゾヒズム」であり、これは「もっともありふれたものであり、不明な要素がもっとも少ないもの」だとフロイトは言う(p.278)。ただし、「女性的なマゾヒズム」の具体例としてこの論文で取り上げられているのは、男性個人の実例におけるマゾヒズムなのであるが。

アトリエ・カーグ回顧展と、企業が社会に果たすべき役割はどう変化したのかと、【その際、「罪責感」が重要な論点となっており、フロイトの注目は、道徳のような「いと高きもの」が、個人の内面の「いと深きもの」と深く結びついている点に向けられた(pp.240-241)。】

f:id:ka-gu:20210226183946j:plain

f:id:ka-gu:20210226184001j:plain

 3月1日から、豊橋商工信用組合・田原支店さんで、アトリエ・カーグ回顧展が始まります!懐かしい作品も出ていますので是非、ご高覧の程宜しくお願い致します!

 アトリエ・カーグは今年で14年になります!その時に小学生だった方も社会に出られて仕事されておられるかたもいたりで、ちょっとした歴史を感じます。バンドクラブは今は歌なしでやっていますが、こちらも10年経ちました。こちらは最初は二人でしたが、コロナが始まる前には大所帯になっていました。音楽は毎日うたたねでやっていますので、個人的にはまだやり続けている感じですが!

f:id:ka-gu:20210226184045j:plainf:id:ka-gu:20210226134136j:plain

 今日は日勤で、雨でしたのでドライブや男子だけすろーの湯に行きました!

 

 下記は本ある部分では本当にそうかもしれませんが、まだまだ格差やグローバルサウス問題が良い方向に向かうような傾向があるのでしょうか?商売に利用しているだけにしかまだ感じられません。

 2020年は新型コロナウイルス感染症パンデミックを抜きにしては語れないが、それ以外の重大な問題が消滅したわけではない。経済的不平等はますます拡大し、気候変動による打撃もかつてなく大きかった。「ブラック・ライヴズ・マター」運動が世界中で展開された、歴史的な1年でもある。こうした社会の変化は、企業が果たすべき役割にも大きな変化をもたらした。本稿では、その中でも注目すべき10の現象を紹介する。


 「いと高きもの」と「いと深きもの」は障害の有無関係なく、全ての人間の中にあるものだと思われます。外部からの内在化と、元々内部にあったものとの違いがあるにしても!
 〜く重要論文『自我とエス』は、「超自我」概念の本格的な導入がなされたことで有名である。そこでは、フロイトがそれまであまり扱ってこなかった「道徳的なもの」についての考察が開始されている(フロイト「自我とエス」、p.239)。

 の際、「罪責感」が重要な論点となっており、フロイトの注目は、道徳のような「いと高きもの」が、個人の内面の「いと深きもの」と深く結びついている点に向けられた(pp.240-241)。

明日は搬入と、「ゼロポジション」と、【だがフロイトは自らの従来のマゾヒズム観を振り返って、考え直す必要が出てきたことを認めた上で「マゾヒズムは一次的なものかもしれない」と示唆的に書き直している(p.186)。】

 

f:id:ka-gu:20210225194537j:plain

 アトリエ・カーグ回顧展?の準備が出来ていました!そう言えば明日搬入!

 今日は休みでしたが、自分の受診とかワクチン接種の件で現場から呼び出されて少しだけ現場に行きました。受診待ちで沢山本が読めました。 

 

 下記は「ゼロポジション」にひかれてのアップです。自分はこの体勢で目玉ぐりぐりから発展した(笑)、視床ぐりぐりをしてから寝ています。最近はそれに頸椎と頭蓋骨の接点ぐりぐりを試しています(笑)。が、京都時代に約20年かけて積み上げた肩と首のコリを解すのは至難の業です......。が、(笑)ほんの少しだけ先が見えた気もしています。最初は小胸筋が痛くてぐりぐり出来ませんでしたが最近は全く痛みもなくできているし、木のようでしたが荒いながらも繊維が解れてきているのが分かるようになってきました。まだまだ完治とはいきませんが、諦めずにやります。 

 夜眠るときの理想の体勢は、あお向けです。さらに言うと、枕を使わず、両手のひらを上に向けた状態を取れば、「ベストの寝方」になります。この体勢は、「ゼロポジション」というものです。体への余計な負荷がゼロで、骨・関節・全体的な骨格の配列・筋肉・腱など他の組織も含めて「あるべき状態」になっているので、全身のあらゆる健康面で有益なものとされています。体にとって最も無理のない楽な状態なので、関節疲労も自然と癒されていきます。

f:id:ka-gu:20210225194514j:plain


  しばらく精神分析自閉症が続きますが、この本の著者のお子さんが自閉症であるのが本の最後に書かれてありました。だから社会学自閉症だったのですね!社会学者さんがこんなに精神分析や哲学や脳科学を深堀しているのはびっくりしましたが、最後を読ませて頂いて納得してしまいました。読ませて頂いている途中にふと、村上靖彦先生の『自閉症現象学』を本棚からでして来てしまったのも偶然ではなかったですね。引用されていました。アンナ・フロイトよりも誰よりもフロイトの継承者はメラニー・クラインだともこの本では出てきていますし、自閉症に対して親和性があるような記述もありました。自分が現場での支援方法を考える軸として、対象関係論を選んだのも、何かを感じたからだと強く確信させてくれた本でもあります。

 マルクスの研究ノートのように、フロイトの心理学草案が残したものの大きさが分かるような気がしています。フロイトを批判されている方々はきちんとフロイトを読まれたのか?と下記を読んでまた思ってしまいます。最先端の脳科学でさえ心理学草案に触れていると言うのに.......。

 〜命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようと努力しているに違いない」と言う(フロイト「快感原則の彼岸」、p.162)。

 命体がかつて捨て去った状態」とは、未だに生きていない状態すなわち死である。したがって生命体は、死の状態を目指すというわけである。ちょうど鮭が生まれ故郷の川を目指すように。

 かしながら、このような定義だけで収まりのつくような概念ではないことは、フロイト自身がこの概念に何らかの形を与えようとして試行錯誤を行ったことからも窺われる。

 

 のような試行錯誤の一環としてフロイトは、「変形された形ではあるが、死の欲動の実例を示すという課題」に取り組み、その際にサディズムマゾヒズムのことを取り上げている(p.185)。

 まり、「超自我」と同時に「死の欲動」もまた、マゾヒズムと関わっているのである。結局、それらの試行錯誤は明確な結論に至ることなく、曖昧なままで終わった。

 フロイトは自らの従来のマゾヒズム観を振り返って、考え直す必要が出てきたことを認めた上で「マゾヒズムは一次的なものかもしれない」と示唆的に書き直している(p.186)。

 ゾヒズムは単にサディズムからの派生物ではないかもしれないとの予感が、ここには漂っている。このようにしてマゾヒズム観の根本的な転換が兆し始めるのであるが、まだマゾヒズムを正面に据えて論じるには至っていない。

きれいな月と、アトリエ・カーグ展の準備と、「おんぶ」をせがむ小・中学生たち 生育環境で得られなかった「愛」を求めてと、【この罪の意識がどこから生まれるかは、精神分析からは明らかにならない。子供が新しい発達段階に入るとともに、この罪の意識が生まれるようであり、この罪の意識がその後の段階まで残ると、劣等感と同じような〈傷痕〉となるようである。】

 

f:id:ka-gu:20210224194941j:plain

  今日も日勤でした。仕事が終わって駐車場に行く途中空を見上げたら、きれいな月が出ていました。

f:id:ka-gu:20210224195259j:plain

 アトリエ・カーグも今年で14年になります!今回の豊橋商工信用組合・田原支店さんでの展示では、アトリエ・カーグ(うたたの余暇支援)の振り返りを行うようです。

 思えば、鈴木コージさん、田島征三さんとかおよびしてワークショップや講演会をさせて頂きました。最近は事業が忙しくなってしまい(良いことですが!)、そんな機会がなくなってしまっています。生活介護も土地建物を手に入れたので、今度はそちらの方に力が向くので、またまたワークショップは遠のきそうですね......。家具屋さんの跡のビルをお借りして始まったので、カーグと言う名前になりました。皆さんここから13歳年を経たことになります(笑)。勿論自分自身も(笑)。

f:id:ka-gu:20210224195411j:plainf:id:ka-gu:20210224195427j:plain

f:id:ka-gu:20210224195323j:plainf:id:ka-gu:20210224195336j:plain

 今日はドライブに行ったり、男子だけすろーの湯に行ったりして、戻って帰宅された方々やショートの方の入浴介助で、あっという間に一日が過ぎてしまいました。今日も皆さん笑顔で終われたこと感謝です!

 

 下記は、現場でも同じことが起きています。エディプスの壁を超えることが出来ていないのかな?と思っていたら、エディプスの壁自体がその方の歩んできた道になかったことを時間してしまうことが多々あります。フロイトは同情は攻撃と同意と言うようなことを言っていました。その方々を見ていると、本当にそう思ってしまいますし、接近の方法を考えるアイディアを頂けたり。

 いい取り組みですね!

 下記は自閉症の勉強をしようとして、大分前に買った本ですが、全く手を付けていませんでした(笑)。その時には少し読んでみて、受け付けられなかったのですが、精神分析関係の本を大分読み漁ってから開いてみると、思ったより読み進めることが出来ました。心理学草案に触れて、分かりやすく記述してくれている本でもあります。 

精神分析自閉症竹中均著
第1章 超自我マゾヒズムと二人のフロイト
  〜ディズムがマゾヒズムに転換されるのは、抑圧行為に伴う罪の意識の影響であると思われる」。

  の罪の意識がどこから生まれるかは、精神分析からは明らかにならない。子供が新しい発達段階に入るとともに、この罪の意識が生まれるようであり、この罪の意識がその後の段階まで残ると、劣等感と同じような〈傷痕〉となるようである。

 だ十分解明されていない自我の構造の方向づけによると、これは批判的な良心となり、自我その他の部分に対立する」(pp.97-98)。

河津桜と、ここはどこ? なくした記憶の理由と、【ただしいずれにせよ、どこか狂気に対するロマンチシズムや憧憬を筆者はうっすらと感じ取らずにはいられない。そしてそのような精神は「対抗同一性」といった姿勢と決して無縁ではないだろう。】

f:id:ka-gu:20210223125823j:plain

 河津桜がいたる所で満開!でも、気温は暖かかったり寒かったり。三寒四温というところでしょうか?

 

 ヒューマンエラーとかスリップとかは、デザイン思考等の本で読んでいましたが、心に余裕がある時は、きちんと周囲を見渡せることが出来ますが、多忙を極めていたり、寝不足であったりしたら、集中力もなくなりますね.......。人間は限定合理でしたね……。

 小林化工 小林広幸社長
「端的に申し上げて『取り違え』『ヒューマンエラー』の問題。日頃から従業員教育を厳密に行ってきたが、混入が発生したことは医薬品企業としてあってはならないことで、教育が不足していたと反省している」

ヒューマンエラー

 
ナビゲーションに移動検索に移動

ヒューマンエラーhuman error)とは、人為的過誤や失敗(ミス)のこと。 JIS Z8115:2000[1]では、「意図しない結果を生じる人間の行為」と規定する。

ジェームズ・リーズンフランス語版はヒューマンエラーを「計画された一連の精神的または身体的活動が、意図した結果に至らなかったものであり、これらの失敗には、他の偶発的事象の介在が原因となるものを除く」と定義している[2]。ヒューマンエラーとは、人間と機械やシステムとの関係の中で、機械側ではなく人間側のエラーをクローズアップしたものである。

直接的には、設備機械の操作や乗り物操縦において、不本意な結果(事故災害など)を生み出しうる行為や、不本意な結果を防ぐことに失敗することである。その場合、「人災」と呼ばれることもある。安全工学人間工学においては、事故原因となる作業員や操縦者の故意過失を指している。

最近では、直接の操作者・操縦者はもちろんのこと、チーム全体、そして管理職の意識も含めてヒューマンエラー防止の対象と考えるようになってきた[3]。 なお、機械設計者・製作者の過誤(ミス)は、通常ヒューマンエラーに含まないが、これらも、ヒューマンエラーを引き起こす原因にはなりうる。

ヒューマンエラーは様々な職種において、経験を重ねたベテランやルーチンワークでも起こりえる事である。経験で学んだ事により、スムーズに業務を全うする為に、業務に支障をきたさない範囲での基本的な確認・操作を省略し、積み重ねてきた事により「問題ない」という自己確信 (思い込み) が生じる。そのような状態下で、確認・操作を怠ったまま業務を進行させると、非常時に結びついた場合、重大な問題・被害に発展する可能性がある。

野球では守備側のヒューマンエラーによって出塁出来た場合はヒット(安打)ではなくエラー(失策)として記録される。[要出典]

原理[編集]

ドナルド・ノーマンは、ヒューマンエラーとなる一連の行動を「計画(意図の形成)の段階」と「実行の段階」の2つに分け、計画段階の間違いをミステイク(mistake)、実行段階の間違いをスリップ(slip)と呼んだ。ミステイクはルールに従って実行しても発生する、計画自体に原因があるエラーであり、スリップはボタンの押し間違いなど「うっかりミス」と呼ばれるもので、実施者の注意減少・混乱が原因とされる[2]

ノーマンは、人間はある意図を形成させると脳内に知識や経験によって準備的なスキーマを形成するが、作業には関係無いが部分的に共通する周辺スキーマも同時に活性化してしまい、注意力が減少した時に何かのきっかけで本来のスキーマではなく周辺スキーマに飛びついてしまうという、ATS(Activation Trigger-Schema)モデルを提唱した[2]。他にノーマンは、意図した内容の保持に失敗する(例:何をしていたのか忘れた)など、記憶に関するエラーをラプス(laps)、雑な扱いによるエラーをハンブル(humble)と呼んだ。

リーズンは、事故につながりうる不安全行動を意図的なものと意図しないものに分け、スリップとラプスを意図しないもの、ミステイクと違反行為を意図したものに配置し、ヒューマンエラーと、ルールから逸脱すると知りながら敢えて行われる違反行為の関係を整理した[2]

対策[編集]

対策とは言え、人間である以上必ず失敗 (エラー) は起こりうる、人間に任せる完璧な対応策はないといった観点に基づいた対策を講じる必要がある。


  前回の続きですが、昨夜アップするのを忘れてました(笑)。炭鉱のカナリアは、ワイナリーでは薔薇でしたね。薔薇は病気に弱いので、カナリア的な使われ方をされています。キレイなものには棘がありますが(笑)、美人薄命というのもありましたね!

春日先生の文章は分かりやすくて、初学者には助かります!

「狂気こそ正常」の諸相
 ここで、前節で挙げた3種類のロジックについてそれぞれ具体的に眺めてみたい。

 ますはの「こんなに腐った社会では、狂ってしまう者のほうがはるかに健全な精神の持ち主だ!」という発想であると。たとえば無差別殺人といった事件が起きたとき、犯人に与する意見が少数ながら出てくる。「なるほど犯人の行為は常識や理性から逸脱しているが、では犯人を指弾できるほど今の社会はまっとうで正しいのか。彼らの振る舞いは、このろくでもない世界に覚醒を促す必要悪ではないのか」といった類の論調である(被害者の家族がそのような意見を述べたら刮目に値するだろうが、そんな験しは決してない)。

 世界的に大ヒットしたトッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』はどうか。悪のヒーローであり、狂気という形容の似合う振る舞いを重ねてきたジョーカーが誕生するに至るプロセスが描かれているが、そこではまさに残酷で異常な社会に押し潰され、その挙げ句に「毒を持って毒を制す」的必然性で生じたキャラクターとされる。だから観客はジョーカーにシンパシーを寄せ、彼の犯行にカタルシスを覚える。

 炭鉱のカナリア、という言い回しがあるので実際に英国で1980年代まで、鉱夫は炭鉱に入る際にカナリアを携えていた。有毒ガスが生じると、いち早くカナリアはそれに反応して囀りをやめる。つまり鋭敏な有毒ガス探知機として用いられていた。同様に狂人は、世間の異常性やバランスの喪失を早期に嗅ぎ取ったゆえに社会に違和感をもたらす言動を示す存在である。そのように捉える人もいる。

 の「異常と正常とは、所詮は相対的な関係でしかない。だから狂気こそが実はまともで自然な精神のありようかもしれないではないか」はどうか。基本的に集団は多数決原理に支配されている。イジメの対象とされる者は組織内の「ふつう」から逸脱した者で、ではその「ふつう」にいかなる根拠があるかといえば付和雷同と大差がない。あるいは、「ふつう」とは空気を読むことと同義であったりもする。もちろん和を重んじるのは大切だろうが、和をなすべき「多数」が誤った思考に陥っている可能性はいくらでもあるので『嫌われる勇気』というタイトルの本がベストセラーとなった理由には、そうした疑念に通底する要素があったようにも思われる。

 ブラック企業において理不尽な労働環境からうつ病となった場合、わたしたちが見ればそのうつ病患者は犠牲者だろう。が、企業論理によれば、うつになるのは根性が脆弱だからであり、その証拠に他の社員は倒れていない、などと自己責任論に落とし込んでしまう。ブラック企業という狂気が「精神を病むほうが異常」と宣言しているわけで、似た事例はいくらでもあろう。

 国家全体が戦争参加へと熱狂的に傾きつつあるとき、反戦を口にする者は裏切り者か狂人とされる。集団ヒステリーにおいて、その興奮から距離を置く者は異常と見なされよう。相対的な関係性には、狂気の萌芽が稀ならず見え隠れする。


 の「従来の常識や発想を揺るがすような事象は、往々にして最初は異常なものと見なされてきた。だから狂気は、実は未来における正常の前触れなのかもしれない」はどうか。これは、いわゆるトリックスター的なものを想定しているのかもしれない。境界性パーソナリティ障害的な精神構造の人たちはしばしば③に近い考え方に基づいて、世間と折り合えない自分を肯定しようとしてきたように見える。天才とされている偉人たちの奇行に特別な価値を見出したがる傾向にも、類似した発想があると捉えることもできそうだ。

 以上のようなさまざまな意見や考え方には、的を射ているものもあれば、贔屓の引き倒しや異論もあろう。ただしいずれにせよ、どこか狂気に対するロマンチシズムや憧憬を筆者はうっすらと感じ取らずにはいられない。そしてそのような精神は「対抗同一性」といった姿勢と決して無縁ではないだろう。

ピックとクラインの本と三木アヤ先生と、シブヤで密を避ける?!~お役所も仕掛けるDXと、【 狂気に強く肩入れするーーそのような姿勢には、ややもすると社会への苛立ちや自己の人生における不全感が裏打ちされているようである。どこか居直りに近い気分があるのかもしれないし、あたかも先入観に囚われていない自分自身を誇っているようにも映る。】

f:id:ka-gu:20210222173240j:plain

 今日は休みでした。ピックを60枚購入したり、春休み中に読む本が来たり、新学期の予定を副学長さんに教えて頂いたりしたらあっという間に一日が終わろうとしています。

 平日はZoomで、土曜日だけ対面とのことですが、自分は秋学期の土曜をリスケしたので、秋学期から2期生さんたちと受けることになります。1期生の方の中にも連絡しあえる方が出来たので、2期生の方でもそういった方が出来れば良いなと思っています。平日がZoomになって、皆さん喜んでおられるのではないでしょうか?仕事しながらは大変ですからね.......。ということは1期生の方々とはまたまたお会いできないことになりそうです........。

 クラインはきちんと読んでおかないと、自分が構想していることが完全に近いものにならないと思ったからです。カウンセリングの技術は東畑先生が書かれていたものに三木アヤさんのことが書かれていたので是非読みたかったものです。少しだけ読み始めましたが、東畑先生が書かれていたように、生々しいものです。が、現場の人間としてはユングの引用も含めて、参考にもなるし元気を頂けるものです。東畑先生が紹介する本は良書が多いと感じています。勿論、東畑先生の本も良書が多いですが。

 

  下記は本当にそれを必要としているところにどんどん仕掛けていってほしいですね!

そもそも与信力って銀行さんが作るものではなかったのではないでしょうか?手数料ビジネスだけで儲けようというのは甘すぎませんかね?どんどん中小企業を助けて、一緒に稼いでくださいね!

 

 下記は同じ本からの引用が続きます。分かりやすくて明快な文章でした。続きは次回ですが、言いたいことは凄く分かります。
狂気こそ正常
                                                                                                  春日武彦
狂気に意味を見出す
 狂気こそ正常である、このいささかひねくれた主張は常に世の中の片隅で延々と繰り返されてきた。ことに臨床心理や精神科医療の現場を知ることなく生活を送っている人々によって。

  狂気に強く肩入れするーーそのような姿勢には、ややもすると社会への苛立ちや自己の人生における不全感が裏打ちされているようである。どこか居直りに近い気分があるのかもしれないし、あたかも先入観に囚われていない自分自身を誇っているようにも映る。

  それはそれとして、「狂気こそ正常」といった主張にはいったいどのようなロジックが盛り込まれているのだろうか。およそ3種類程度に分けられるのではないかと筆者は考える。すなわちーー


①こんな腐った社会では、狂ってしまう者のほうがはるかに健全な精神の持ち主だ!

②異常と正常とは、所詮は相対的な関係でしかない。だから狂気こそが実はまともで自  然な精神のありようかもしれないではないか。

③従来の常識や発想を揺るがすような事象は、往々にして最初は異常なものと見なされてきた。だから狂気は、実は未来における正常の前触れなのかもしれない。

 いずれも、正気であるとされるのは単に多数派に属することでしかないといった発想に根差しているように思われる。さらに言うなら、衆愚によって正気は担保されている、と。