うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

河津桜と、ここはどこ? なくした記憶の理由と、【ただしいずれにせよ、どこか狂気に対するロマンチシズムや憧憬を筆者はうっすらと感じ取らずにはいられない。そしてそのような精神は「対抗同一性」といった姿勢と決して無縁ではないだろう。】

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 河津桜がいたる所で満開!でも、気温は暖かかったり寒かったり。三寒四温というところでしょうか?

 

 ヒューマンエラーとかスリップとかは、デザイン思考等の本で読んでいましたが、心に余裕がある時は、きちんと周囲を見渡せることが出来ますが、多忙を極めていたり、寝不足であったりしたら、集中力もなくなりますね.......。人間は限定合理でしたね……。

 小林化工 小林広幸社長
「端的に申し上げて『取り違え』『ヒューマンエラー』の問題。日頃から従業員教育を厳密に行ってきたが、混入が発生したことは医薬品企業としてあってはならないことで、教育が不足していたと反省している」

ヒューマンエラー

 
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ヒューマンエラーhuman error)とは、人為的過誤や失敗(ミス)のこと。 JIS Z8115:2000[1]では、「意図しない結果を生じる人間の行為」と規定する。

ジェームズ・リーズンフランス語版はヒューマンエラーを「計画された一連の精神的または身体的活動が、意図した結果に至らなかったものであり、これらの失敗には、他の偶発的事象の介在が原因となるものを除く」と定義している[2]。ヒューマンエラーとは、人間と機械やシステムとの関係の中で、機械側ではなく人間側のエラーをクローズアップしたものである。

直接的には、設備機械の操作や乗り物操縦において、不本意な結果(事故災害など)を生み出しうる行為や、不本意な結果を防ぐことに失敗することである。その場合、「人災」と呼ばれることもある。安全工学人間工学においては、事故原因となる作業員や操縦者の故意過失を指している。

最近では、直接の操作者・操縦者はもちろんのこと、チーム全体、そして管理職の意識も含めてヒューマンエラー防止の対象と考えるようになってきた[3]。 なお、機械設計者・製作者の過誤(ミス)は、通常ヒューマンエラーに含まないが、これらも、ヒューマンエラーを引き起こす原因にはなりうる。

ヒューマンエラーは様々な職種において、経験を重ねたベテランやルーチンワークでも起こりえる事である。経験で学んだ事により、スムーズに業務を全うする為に、業務に支障をきたさない範囲での基本的な確認・操作を省略し、積み重ねてきた事により「問題ない」という自己確信 (思い込み) が生じる。そのような状態下で、確認・操作を怠ったまま業務を進行させると、非常時に結びついた場合、重大な問題・被害に発展する可能性がある。

野球では守備側のヒューマンエラーによって出塁出来た場合はヒット(安打)ではなくエラー(失策)として記録される。[要出典]

原理[編集]

ドナルド・ノーマンは、ヒューマンエラーとなる一連の行動を「計画(意図の形成)の段階」と「実行の段階」の2つに分け、計画段階の間違いをミステイク(mistake)、実行段階の間違いをスリップ(slip)と呼んだ。ミステイクはルールに従って実行しても発生する、計画自体に原因があるエラーであり、スリップはボタンの押し間違いなど「うっかりミス」と呼ばれるもので、実施者の注意減少・混乱が原因とされる[2]

ノーマンは、人間はある意図を形成させると脳内に知識や経験によって準備的なスキーマを形成するが、作業には関係無いが部分的に共通する周辺スキーマも同時に活性化してしまい、注意力が減少した時に何かのきっかけで本来のスキーマではなく周辺スキーマに飛びついてしまうという、ATS(Activation Trigger-Schema)モデルを提唱した[2]。他にノーマンは、意図した内容の保持に失敗する(例:何をしていたのか忘れた)など、記憶に関するエラーをラプス(laps)、雑な扱いによるエラーをハンブル(humble)と呼んだ。

リーズンは、事故につながりうる不安全行動を意図的なものと意図しないものに分け、スリップとラプスを意図しないもの、ミステイクと違反行為を意図したものに配置し、ヒューマンエラーと、ルールから逸脱すると知りながら敢えて行われる違反行為の関係を整理した[2]

対策[編集]

対策とは言え、人間である以上必ず失敗 (エラー) は起こりうる、人間に任せる完璧な対応策はないといった観点に基づいた対策を講じる必要がある。


  前回の続きですが、昨夜アップするのを忘れてました(笑)。炭鉱のカナリアは、ワイナリーでは薔薇でしたね。薔薇は病気に弱いので、カナリア的な使われ方をされています。キレイなものには棘がありますが(笑)、美人薄命というのもありましたね!

春日先生の文章は分かりやすくて、初学者には助かります!

「狂気こそ正常」の諸相
 ここで、前節で挙げた3種類のロジックについてそれぞれ具体的に眺めてみたい。

 ますはの「こんなに腐った社会では、狂ってしまう者のほうがはるかに健全な精神の持ち主だ!」という発想であると。たとえば無差別殺人といった事件が起きたとき、犯人に与する意見が少数ながら出てくる。「なるほど犯人の行為は常識や理性から逸脱しているが、では犯人を指弾できるほど今の社会はまっとうで正しいのか。彼らの振る舞いは、このろくでもない世界に覚醒を促す必要悪ではないのか」といった類の論調である(被害者の家族がそのような意見を述べたら刮目に値するだろうが、そんな験しは決してない)。

 世界的に大ヒットしたトッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』はどうか。悪のヒーローであり、狂気という形容の似合う振る舞いを重ねてきたジョーカーが誕生するに至るプロセスが描かれているが、そこではまさに残酷で異常な社会に押し潰され、その挙げ句に「毒を持って毒を制す」的必然性で生じたキャラクターとされる。だから観客はジョーカーにシンパシーを寄せ、彼の犯行にカタルシスを覚える。

 炭鉱のカナリア、という言い回しがあるので実際に英国で1980年代まで、鉱夫は炭鉱に入る際にカナリアを携えていた。有毒ガスが生じると、いち早くカナリアはそれに反応して囀りをやめる。つまり鋭敏な有毒ガス探知機として用いられていた。同様に狂人は、世間の異常性やバランスの喪失を早期に嗅ぎ取ったゆえに社会に違和感をもたらす言動を示す存在である。そのように捉える人もいる。

 の「異常と正常とは、所詮は相対的な関係でしかない。だから狂気こそが実はまともで自然な精神のありようかもしれないではないか」はどうか。基本的に集団は多数決原理に支配されている。イジメの対象とされる者は組織内の「ふつう」から逸脱した者で、ではその「ふつう」にいかなる根拠があるかといえば付和雷同と大差がない。あるいは、「ふつう」とは空気を読むことと同義であったりもする。もちろん和を重んじるのは大切だろうが、和をなすべき「多数」が誤った思考に陥っている可能性はいくらでもあるので『嫌われる勇気』というタイトルの本がベストセラーとなった理由には、そうした疑念に通底する要素があったようにも思われる。

 ブラック企業において理不尽な労働環境からうつ病となった場合、わたしたちが見ればそのうつ病患者は犠牲者だろう。が、企業論理によれば、うつになるのは根性が脆弱だからであり、その証拠に他の社員は倒れていない、などと自己責任論に落とし込んでしまう。ブラック企業という狂気が「精神を病むほうが異常」と宣言しているわけで、似た事例はいくらでもあろう。

 国家全体が戦争参加へと熱狂的に傾きつつあるとき、反戦を口にする者は裏切り者か狂人とされる。集団ヒステリーにおいて、その興奮から距離を置く者は異常と見なされよう。相対的な関係性には、狂気の萌芽が稀ならず見え隠れする。


 の「従来の常識や発想を揺るがすような事象は、往々にして最初は異常なものと見なされてきた。だから狂気は、実は未来における正常の前触れなのかもしれない」はどうか。これは、いわゆるトリックスター的なものを想定しているのかもしれない。境界性パーソナリティ障害的な精神構造の人たちはしばしば③に近い考え方に基づいて、世間と折り合えない自分を肯定しようとしてきたように見える。天才とされている偉人たちの奇行に特別な価値を見出したがる傾向にも、類似した発想があると捉えることもできそうだ。

 以上のようなさまざまな意見や考え方には、的を射ているものもあれば、贔屓の引き倒しや異論もあろう。ただしいずれにせよ、どこか狂気に対するロマンチシズムや憧憬を筆者はうっすらと感じ取らずにはいられない。そしてそのような精神は「対抗同一性」といった姿勢と決して無縁ではないだろう。