うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、田原市でワクチン集団接種の訓練と、【そもそも、深刻な相談やトラウマティックな出来事を連日のように聴きながら、正気を保ち、平穏な日常が続いていくと信じることは、そう容易なことではない。】

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 今日は日勤で、送迎担当ではなかったので、現場に入ることが出来ました。ドライブにいったり、男子だけすろーの湯に行ったり、アイスクリームを食べたり、皆さんと沢山触れ合うことが出来ました。ギターもいっぱい弾きました!

 

 下記は地元でもいよいよ始まりますね! 本当に効果があれば嬉しいです!

 

 下記は昨日の続きですが、現場の職員さんは思うところがあるようでした。現場にいる時は無心ですが、休みだったり、ほっと一息ついた時に色々考えてしまいます。また、現場に入れば無心になりますが(笑)、毎日その繰り返しかも知れませんね。

エモディディと自己の真正性
感情労働者としてのセラピスト、エモディディしてのセラピー
 こまでの議論を踏まえ、感情の生産と消費という観点からセラピーや相談援助について考える。

 ず、感情労働の観点から相談援助職について見た場合、非常に高度で繊細な感情労働を遂行する存在とみなすことができる。

 とえば他者クライエントの感情転移について慎重に扱いつつ自らの逆転移にも自覚的にセラピーを進めていくことや、個人的な価値観や考えはひとまず横に置き、虚心坦懐にクライエントの話に耳を傾けて共感的に理解すること、自分の発話がクライエントのその後の行動をどのように方向付けるのかを吟味しながら語りかけること、スーパービジョンを通して自分の中の囚われや偏りについて点検し、ケースへの対応ん含めて何かしらの「気づき」を得ること、面接の時間と場所を区切ることでクライエントとの関係性に一定の線を引くこと、室内のインテリアや机の上や椅子の配置に気を配り、話を引き出しやすい雰囲気を演出すること等々、セラピストは自己コントロールとセラピーを行う環境に関する数々の作業を丁寧に積み重ねることで、専門職としての「専門性」を担保し、クライエントとのラポールの形成や良い援助を実現しようとしている。

 もそも、深刻な相談やトラウマティックな出来事を連日のように聴きながら、正気を保ち、平穏な日常が続いていくと信じることは、そう容易なことではない。

 の中や人間の暗部に遭遇することの多いセラピストにとって、クライエントに共感的でありながら決して巻き込まれないという態度の保持は、専門明らかにとして適切な援助を提供するための基本事項であるとともに自分を守る術でもある。 

 のような感情労働を通して提供されるセラピーの場を、クライエントはどのように「消費」するのだろうか。もちろん、日本の健康保険制度のもとに医療行為として診療報酬がしはらわれる精神療法に限って言えば、それは商品とは言えず、むしろ社会主義的な提供のされ方をしている。とはいえ、提供されるセラピーはセラピストの労働によって提供される生産物であることに変わりはない。

 ラピストの感情労働とそれによって提供されるセラピーという装置、そしてそれを「消費」するクライエントの感情は、どのようにネットワーク化され、エモディディ化するのだろうか。また、その時、感情や自己の真正性とは何を意味するのだろうか。

 ルーズによれば「合理的かつエモーショナルな行為者」は、人間関係の数量化や効果測定、その関係性からどの程度の心理的報酬や成果を得られるのかという計算に長ける一方で、それと同程度に感情的な経験をも志向している(ibid .[p.5])。

 れはセラピーでの専門家ークライエント関係においても再現される特徴であろう。エモディディという観点は、医療社会学における「人間の条件の医療化」論(Conrad,2007)とあわせて、今後のセラピーに関する経験的な研究の展開と現代人の感情や自己の真正性に関する考察を深める際の参照点として示唆に富む。 

今日のうたたねと、なぜ日本のメディアは「支離滅裂な欧州のコロナ対応」を絶賛するのかと、世界中で頻発する「東アジア人差別」を、なぜ日本人は問題にしないのかと、【イールズは、感情労働論とは異なる立場から、消費社会における感情の消費についてアプローチしている。それは消費者の感情を巻き込む形で成立する「感情商品=エモディディ(emodity:emotionalcommodity)」の消費である。】

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 今日は長距離の送迎が朝夕にあり、あまり現場に入ることが出来ませんでしたが、少しだけドライブと入浴介助をさせて頂きました。

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 山に行ったついでに花を少し頂きました。水仙はうたたね駐車場で咲いているものです。椿が開いてくれば華やかになりそうですね!

 

 下記の二つは本当にそう思います。自画自賛は頂けませんが、せめて公平に、普通に報道が出来ないものでしょうか?今の国会を見ていてもなんか税金を払うのがばからしくなるのは自分だけでしょうか?


 下記は昨日の本の別の方の物ですが、自分達にも当てはまることです。『自らの感情に働きかけ、それを製造物として差し出すことは、感情労働従事者に特有の疲弊をもたらす。』は、本当にそうですね。バーンアウトしないために、仕事と割り切ってやるしかないのですが、これだけやってもその反応?と思うことが多々あるので(立場の違いによることは皆さん承知していますが)、もうええわ!と思ってしまう反面、皆さん現場に出たらケアさせて頂こうと自然に頑張ってしまっています。本当にお疲れ様です!

感情の消費
感情資本主義社会における自己の真正性
山田洋子
感情という商品
感情の生産と消費
 現代社会において、消費されるのはモノだけではない。イールズによれば、人間の感情も消費される。では、それは一体どのようにしてか。この点について考えるにあたり、まずは比較対象としてA.R.ホックシールド感情労働論について見ておきたい。消費社会の進行や第三次産業の増大とともに、「感情労働(emotionlabor)」(Hochschild,1983)に従事する者が増加するが、広義のサービス業や対人相談援助職等の感情労働に携わる人々は、自らの感情をマネジメントし、その場にふさわしい感情ーー優しさ、親しみやすさ、楽しさ、明るさ、親身であること、つかず離れずの距離感などーーを顧客に提供することで賃金を得ている。うわべの取り繕い(「表層演技」)や感情自体の変更(「深層演技」)を巧みに使い分けながら、彼ら、彼女らは自らの感情を成形加工し、顧客の前に商品として差し出す。
 自らの感情に働きかけ、それを製造物として差し出すことは、感情労働従事者に特有の疲弊をもたらす。一体、この感情は誰のものか?私が本当に感じている感情なのか、それとも組織の命令によって感じること・演じることを余儀なくされたものなのか?
 これらは感情という商品の生産と疎外、「管理される心」とその真正性というテーマである。ホックシールド感情労働論の力点は、感情の生産にあった。ただ、思えば当然のことながら、それが生産されるということは、裏返せば、それを消費する人がいるということである。だが、ホックシールド感情労働論は感情の消費について多くを語っていない。現代人は、適切にマネジメントされ、商品として差し出された感情を、どのように消費しているのだろうか。人間同士の関係性が商品化される時、そこに立ち上がる関係性は、金銭を介したもの・職務上のものであっても、幾ばくかの真実らしさを含むものだろうか。
 イールズは、感情労働論とは異なる立場から、消費社会における感情の消費についてアプローチしている。それは消費者の感情を巻き込む形で成立する「感情商品=エモディディ(emodity:emotionalcommodity)」の消費である。ホックシールド的な感情労働論が労働者による感情の生産に力点を置いていたとすれば、イールズは、消費者の感情をその一部分として包摂するような商品が現代社会に多く見られ、市場は理想的自己や感情に関する文化的テンプレートを経済的営為へ変質させるという。

【最新情報】ワクチン あさって第2便到着 都道府県配分は?と、ワクチン接種で発症・重症が激減、臨床と同等の有効性確認…世界1・8億回のデータ蓄積と、松原みき「真夜中のドア~stay with me」が海外発で40年ぶりのヒット。その立役者2人とは?と、【音楽は、精神だけに働きかけるのではなく、人間の全体、精神と身体の結合体としての人間に働きかけるというのである。もっと絞って言うなら、心身結合の領域に位置づけられる情念や感情に働きかける。だから、効果が生ずるというわけである。心を癒やすだけでなく、体を癒やす

  ワクチン接種が出来る日が近いのでしょうか?副反応が気にもなりますが、個人的には早く接種したいですね。

 インフルエンザでも毎年膨大な数の人がなくなっていますが、コロナもそれぐらいになるのでしょうか?高齢者や持病がある方には、インフルエンザでも十分危険ですが.........。

 

 やはり好きおな曲が取り上げられていたらアップしたくなりますね。前回はヤフコメに投稿したらえらい反対が自分だけでなく自分をフォローしてくれた方にもついてしまい、申し訳ない思いです。今回は投稿しません(笑)。でも松原正樹さんのギターも最高です!


 

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 今朝、上記を読んでいたら、下記があり予定変更して引用させて頂きました。音楽は、精神だけに働きかけるのではなく、人間の全体、精神と身体の結合体としての人間に働きかけるというのである。というのは、現場でギターを弾いていてもそうだと思います。音楽で元気になられる方がどれだけ多いか。これは障害の有無関係ないでしたね!

 

多彩な療法の分散ーその歴史と行方
                                                         小泉義之
歴史を垣間見て
 神医学史・精神医療史に関する文献を読んでいると、新奇なものとして話題になりがちな療法にしても、それとそっくりの療法が過去に行われていたことに気づかされる。と同時に、「われわれ」のいささか硬直した考え方や行い方を反省させられる。
 フーコー『狂気の歴史』は、いわくつきの思想書ではあっても、歴史研究としては買えず、まして「現場」で役立たぬと思われているだろうが、思い込みを捨て丹念に読んでみると、そうでもないことがわかってくる。例えば、フーコー音楽療法に触れた一節を引いておく。

 

 

 ネッサンス以来、音楽は、古代において付与されていた治療上の効能を再発見してきた。音楽の効果はとくに狂気に対して著しかった。シェンキウスは、「深いメランコリーに陥った」一人の男を「彼がとりわけ好きだった合奏曲」を聞かせて治したのである。アルブレヒトもまた、ある妄想者が発作を起こしたとき、人に歌を歌ってもらったところ、「そのちょっとした歌が、病者を目覚めさせ、病者を喜ばせて、笑わせた。そして激しい発作を永久に消した」。(Foucault,1972[pp.343-344])


 自身はここに示されているような経験が昔も今もありうることをまったく疑っていないが、その上で気になるのは、演奏者たちや歌い手をどのように調達したのか、謝礼はどうしたのか、ひょっとして病者の知り合いであったのかといったことである。ことにその効能や効果をどのように説明して理解していたのかということが気になる。フーコーは、続けてこう書いている。

 

 ころで、このような観察は、決して心理的な解釈に付されないのである。音楽が治すのは、音楽人間存在の全体に作用するからであり、魂そのものに浸透するのと同様に、直接的・効果的に身体に浸透するからである。

 

 楽は、精神だけに働きかけるのではなく、人間の全体、精神と身体の結合体としての人間に働きかけるというのである。もっと絞って言うなら、心身結合の領域に位置づけられる情念や感情に働きかける。だから、効果が生ずるというわけである。心を癒やすだけでなく、体を癒やすだけでもなく、人間を癒やすというのである。

  れだけでは何とも雲をつかむような説明であるが、おそらく肝心なことは、メランコリー者も妄想者も、そのことを信ずることができていたということであろう。それだけなく、臨床家を信用し演奏者・歌手を信頼できていたということであろう。「当事者」を含めた人間の徳性や資質が肝心なのである。

寒いですね!と、2021年を生き抜くと、レイ・カーツワイル:今後現れるシンギュラリティ(技術的特異点)を学ぶ大学と、【「指示子」とは、バンヴェニストの言葉を用いるならば、「話(discurs)の現実」を指向する性質をもつ記号である。】

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  今日も寒かったですね!雪も舞っていました.......。

 

 下記はサービス経済化で参考にさせていただいた記事元の他のニュースです。観光などが中心のニュースなので、この状況下では色々なことが発信されていますし、サービス経済化のカテゴリーも目立ちます。

 

 つまり、第3波をGoToトラベル・キャンペーンがもたらしたというのは、ほとんど「濡れ衣」なのですが、感染拡大で高まるフラストレーションに対するスケープゴートとされてしまった形になります。

これは理不尽なことですが、感染症が人から人へ感染するものである以上、人が「地域」を超えて移動することと、ウィルスの拡大の間に「全く関係がない」とは言い切れません。統計的に言えば、強弱はともかく、旅行者数と感染拡大の間に有意な相関があることは否定できません。

ただ、ここで本来問題とすべきは、その「相関」がどの程度のものであり、影響力がどれくらいあるのかという話です。なぜなら、感染リスクというのは、人々が生活する、人と人がコミュニケーションする中でも生じるものであり、社会が動く限りゼロリスクとはならないからです。

なので、リスクは相対的に語るべき…なのですが、実際には、理論ではなく、情緒的・感覚的に論じられる事が多く、その割を食らってしまった形になります。下図でいえば、Dポジションにハマってしまったわけです。

 

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2020年5月に提案したシステム

こうしたシステムの導入は、利用者を選別することになる(素性を明かしたくない人も居る)ので、現場からは嫌がられますが、そこを避けてきた結果が、GoToに対する謂れのない非難であると言えます。

GoToトラベルが目指すものは、コロナ禍におけるニューノーマルな観光であるということをしっかりと伝えていくには、着地側での感染症対策だけでなく、利用者に対しても一定の義務を課していくことが必要と考えます。

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resort-jp.com


  下記は今となっては批判・否定的な意見が多くなっていますが、その当時はもてはやされていましたね。時代・状況が変わると正論も変わらざるを得ませんね.....。

 

www.ted.com

 

  下記は、もう少し長く引用したほうが良かったのかも知れませんが、今回で終わりにします。次回からは『精神分析自閉症』に入らせて頂きます。ここでやめるのは、きりがなくなってしまう恐れを感じたためです(笑)。元々詩が好きで音楽に入っていったというのもあり、高校時代はボードレールにはまり込んでいました(笑)。『金を稼ぐ唯一の方法は、無欲になって仕事をすることだ』とか『精神によって創られたものは、物質以上に生きている』とかまともに影響を受け(笑)、実践してきて今があるのかも知れません。と言ったら周囲の連中に大笑いされるでしょうね(笑)。

 指示子というのは主体だけではなく時間軸をも入れているということでしょうか?〈これ〉〈そこ〉〈いま〉〈昨日〉は、自分たちにとっても大事なキーワードですね。

 〜ヴェニストは、一九五八年に雑誌『心理学雑誌』に発表した論文「代名詞の問題」のなかで、「指示子(deixis)」という呼称を導入しつつ、特定の代名詞をもつこうした参照機能について詳細に展開している。

 示子」とは、バンヴェニストの言葉を用いるならば、「話(discurs)の現実」を指向する性質をもつ記号である。興味深いのは、バンヴェニストが、「指示子」の具体例として、〈わたしは〉以外に〈これ〉〈そこ〉〈いま〉〈昨日〉などの語もあげていることである。

うたたねの様子と,ピアノマンと、 こころの未来24号と、【「動詞は諸言語の不思議である。それは魂を与える(anime)。動詞は、自然のただなかに、事物ー語および感覚ー語のただなかに、個人を置く」(C1,402-403)。動詞のもつこうした「身体を要求する性質」は、言語の起源と深くむすびついている、とヴァレリーは考える。】

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 アップが遅れてしまいました。こちらは一昨日のうたたねです!
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 こちらは昨日のうたたね!宣言が解除されるまで、日中の活動は中止されるのを選択された方々には、屋外のアクティビティや
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 すろーの湯に行ったりしています。

NHKの番組でピアノマンが流れていて、久しぶりにじっくり聞きたくなってYouTubeで聞いてみました。高校生の時に一時はまっていました(笑)。良い曲ですね!
www.youtube.com
下記がNHKのものです。
https://www.youtube.com/watch?v=h2wXncSuFBk&feature=youtu.be

こころの未来24号が出ましたね。
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http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2020/12/kokoronomirai24-300x213.jpg

 動詞をここまで真剣に見つめたことがなかったので、新鮮で勉強になりました。『動詞のもつこうした「身体を要求する性質」は、言語の起源と深くむすびついている、とヴァレリーは考える。』
動詞を含んだ詩を朗読すると言うことで身体が動かされると言うことなのでしょうか?奥が深すぎて自分には手が負えません......。

 〜しろ、動詞はそのうちにある欠如を抱えているからこそ、必要なものを要求するのだとヴァレリーは考える。「動詞は要求する語のひとつであるーーイオン化された語ー身体を奪われている語」(C1,433)。動詞すなわち動作を表す語は、それじたい動作の主体=身体をもたないため、身体を要求する。
 詞は諸言語の不思議である。それは魂を与える(anime)。動詞は、自然のただなかに、事物ー語および感覚ー語のただなかに、個人を置く」(C1,402-403)。動詞のもつこうした「身体を要求する性質」は、言語の起源と深くむすびついている、とヴァレリーは考える。

ヴァレンタインのクッキー2と、友人からはちみつと、ことしのM&Aを展望する ~コロナ禍で企業の次の一手は~と、財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とすると、【「作者は決して語らない」】

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 カーグに参加できなかった方々から、写真が送られてきました!
 

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  皆さん素敵すぎます!

 

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  季節を感じますね!

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 昨日、すろーの湯で遊びました(笑)!

 

 

 秋学期に勉強したことですが、事業継承は自分達にも大きな問題なので、事業だけでなく自分達のナレッジやスキルも含めて買っていただけるように頑張ります。

 角田氏
日本企業が、コロナ時代を“生き延びる”ために、再編の動きが起きる。ただ、単一の業界だけでビジネスが成り立たなくなっているのも事実だ。例えば自動車メーカーが地図サービスの会社を買収した例があったが、業界をまたぐM&Aが増えてくるだろう。

 

 下記は、事業を続けていると先日も書かせて頂いたように、何を残したいか?になってきます。でも、人を遺すと言うのは一番難しいことですね.......。だから一番上でしょうが.......。

 「手取り足取り何もかも答えを出すのは、果たしていいのだろうか。やっぱり自分で考える、自分で答えを見つける。やっぱり耐える、我慢、こういうのができると更に一段と育つ。楽をして、いい結果は得られません」


 自分たちも現場では、チェスのプレイヤーなのかもしれませんね?その方の流れに沿いながら、道が外れないようにさせて頂くのが仕事なので、恣意的には中々行きませんから。

第ニ章 装置を作る

身体の欠如と行動としてのディスクール

 〜考に対する《軽蔑》」とはどういうことか。定型で詩を書き続けたヴァレリーにとってこれは重要な点であり、後の議論とも関わるのでここで簡単に補足しておこう。

 ァレリーによれば、私たちの日常的な思考は言語に大きく支配されており、言語は思考を形づくる「主要な作者の一人」(CI,1091)とさえ言える。

  かし韻文で書くことは、韻や響きといった条件のため通常の語順を倒置したり、意味的にはつながらない語どうしを音によって重ねたり、通常の言語に対して「小さなクー・デター」(CI,416)を起こすものである。

  者も読者も、自動作用に任せるようにしては思考できない。とりわけ、「高貴」なアレクサンドランの場合、それが思考からとらせる距離によって、私たちの思考の自由どは抑制される。

   すでにみたように、装置としての詩は「拘束」を伴うがヴァレリーは、詩作においても、まさにこの不自由さにこそ可能性を見出す。

   詩において「私はもはや私の言いたいことが言えない」(E1,1356)ことこそが重要なのである。詩がチェスのゲームであるならば作者はそのプレイヤーであるが、それは作者が全てを支配するということを意味するわけではない。

  者は決して語らない」(C2,1207)。チェスにおいてプレイヤーがゲームの展開に対するリアクションとしてしか手を打つことができないように、またルールによって恣意的な駒の動きが禁じられているように、作者も、詩の運動と規則に従ってしか語を置くことはできない。

ヴァレンタイン・クッキーと、新型コロナワクチン 国内初の正式承認 米ファイザー製 厚労省と、コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論

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 今日は本当はカーグの日でしたが、中止でしたので、ホームの方でやりました。クッキーはボランティアさんが、パウンドケーキは主任さんが作ってくれました!

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 午後からは男子だけ、すろーの湯に行きました!
梅もキレイに咲いていました!

 

 このワクチンが本当に効果があれば良いですね!


 宇沢先生の名前が出ていたので、覗きました! ベーシックインカムは、難しいですね。基準をどこに設定するのか? 議論が尽きないですね!

 

 能力の開拓と言っても、個々の身体は違うので、それぞれにあるということですね。当たり前ですが、支援方法も基本さえ押さえていれば、個々の能力でいろんな形が出来ます。基本はきちんとしているということが前提ですが。

  ァレリーが「能力の開拓」と言うとき、それは個々の人間の能力ではなく、人間という生きものがもちうる能力の開拓を意味している。

  ちろん、普遍的で抽象化されているといっても、読者がその行為を通じて獲得するものである以上、「能力」は個々の読者の身体によって実際に感じられるはずのものである。

キレイな空と、今日のうたたねと、アール・ブリュット展と、資本主義にいかに倫理を導入するか――中谷 巌(「不識塾」塾長)【佐藤優の頂上対決】と、【目には見えないが身体の能力に関わるような行為、それが《純粋な》詩の促す行為である。】

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 今日はシフトが変更されていたのをすっかり忘れて(笑)、日勤で出勤してしまいましたが、きれいな空に助けられました。毎日空がきれいですね!
 

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 今日のうたたねは、音楽の力で!皆さん盛り上がりました!音楽やアートには不思議な力が宿っていますね!言葉には出来ない何かが!

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 親分が桜ケ丘ミュージアムで開催されているアールブリュット展を見てきたようです。入賞した上記の2つはやはり言葉には出来ない力がありますね!


  下記のニュースも少し前のものですが、考えさせられましたし、大学院の勉強の復習にもなりました。

  一昨年秋、世界中の数百という占い師に、翌年に何が起きるか占ってもらったら、疫病が流行ると言う人は一人もいなかったそうです。占い師に予言能力があるかどうかはともかく、やっぱり人類の歴史は思いがけないことの連続で、その予測しない事態にどんな対応をしてきたかで歴史ができている。マーケット万能主義の決定的欠陥は、人間は何でも計算して予想を立てて対応できると考えていることです。


  目には見えないが身体の能力に関わるような行為、それが《純粋な》詩の促す行為である。は、上記のアールブリュットの作品にも言えることですね。

 法人の理事に、しっかりとした方を迎え入れようと、親分が頑張り始めていますが、しっかりとされた方はそれなりの美学を持っておられていて、断られてもその言葉を聞くだけでも、学習にも勇気を与えてくれることにもなり得ます。ヴァレリーが言うところの「装置」を持っているかのように!

 ァレリーの詩のプログラムにおいて読者が行う「行為」とは、単なる能動的な行為とは異なる。それは「装置」によって促された能動性であり、ある種の「拘束」を、「捕虜状態」を伴う能動性である。

 に言えば、そのような受動と能動の境界が曖昧になるような次元においてようやく、「能力の価値の開拓」ということは起こりうるのだ。

 たちが私たちの自由を作品に譲り渡す代償として、作品はそれが私たちに課す捕虜状態への愛と、直接認識に伴うある種甘美な感情を私たちに与えてくれる」(ibid .)。

 のとき、「行為」は完全なものとなる。「詩は私たちの運動機能のより豊かな領域において展開され、それは私たちに完全な行動により近い参加を要求するのである」(E1,1375)。

 こでいう「完全な行動」が、もはや朗読のような目に見えるそれとしては語りえない次元を含んでいるのは明らかだろう。目には見えないが身体の能力に関わるような行為、それが《純粋な》詩の促す行為である。

 

フキノトウと、今日のうたたねと、アイデンティティーを失ったネット時代の叫びと、【つまり詩はリズムによって読者の筋肉組織を刺激し、それが活動全体を高揚させる読者の言語能力を解放ないし解き放ち、深いところで読者の存在全体を秩序づけるのである。】

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 フキノトウが転がっていたので(笑)、うたたね地蔵さんにお供えしました。コロナも自粛すれば減り、解除したら増えるの繰り返しですね……。早い終息を今日もお願いしました。

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 午前は海を歩いたり

 

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 菜の花畑にいったりしました!

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 梅も日当たりの良い場所は、満開のところもありました!

 

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 お昼からは男子だけすろーの湯に行きました。コロナ禍でもここだけは今のところ皆さんには楽園です。相変わらず一人ずつの入浴ですが........。

 

 下記は少し前の記事ですが、まだ頭の中に残っています。一昨年、自分のアイデンティティを探しに生まれ故郷に幾度か足を運びましたが、まだはっきりわからないまま、その件については保留にしたままコロナ禍に......。アイデンティティは本当に必要で、感じることが可能なのか?と、自分に問うてみても全く答えが出ませんし、ヴァレリーの詩ように、心が自然に動かされるものなのか? 

 そのマクルーハンは1977年に、現在のこうした状況を予言するかのように、「フロンティアで生きる者はアイデンティティーを失い、誰でもなくなってタフに生きなくてはならなくなる。誰かであることを示さなくてはならなくなり、非常に暴力的になる。人はアイデンティティーを失うと暴力に訴えるのだ」とも言っている。 

 

 詩のリズムと言うのは分かるような分からないような......。でも自分にとっての音楽は血が騒ぐし(笑)、筋肉組織も刺激されている感じがします。自分は曲を作る時に詩が先でないと書けない人なので、詩が書けなくなってからは、曲も全然書けていません。

 食欲が落ちた方に、その方のリズムに合った曲を弾かせて頂くと食欲が出たり、落ち着かれたりすることもあるので、リズムは大事な(生活のリズムも含めて)ものなのでしょうね?そんな時にはその方の中に深く入っている感じもします。

 詩は、詩の読者に魂の従順、従って身体は棄権を要求するような、あやまった現実を課したりはしない。詩は存在全体に広がらねばならない。

  まり詩はリズムによって読者の筋肉組織を刺激し、それが活動全体を高揚させる読者の言語能力を解放ないし解き放ち、深いところで読者の存在全体を秩序づけるのである。

  いうのも詩は、人間がその力のどれをも遊ばせておくことのない強い感情によって捉えられたときに現れる、ひとりの生きる人間の統一と調和、並外れた統一を誘発ないし再び作ることを目指すからだ。(E1,1374-1375)

精神分析と自閉症と、世界最高齢の総務部員は90歳 エクセル駆使「私に定年はない」と、アタリの警鐘「コロナ危機がいずれ収束するというのは幻想だ」と、【小説の読者はみずからの身体を忘れ、物語世界に没入してある登場人物の味方をしたり、喜んだり、悔しがったりする。「彼はもはや自分自身ではなく、外的な諸力から分離された一つの脳髄にすぎないのである」(ibid .)。】

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 現在読ませている本ですが、フロイトの心理学草稿に焦点が当てられていて、凄く考えさせられています。次に引用させて頂く予定です。

マルクスの研究ノートが見直されているのもあながち間違いではないと思ってしまうような内容です。この著者だけが心理学草稿に焦点を当てているわけではないのですが、初学者には発見が沢山ありました。
 

  下記は凄いと言えば凄いのですが、個人的には年齢は関係ないと思っていますので、当たり前と言えば当たり前です。日本の政治家は年寄りばかりだ!と言われる方が多いですが、年齢ではなくて、1番大事なものは、生き方ですよね?

 

  下記のジャック・アタリ氏の指摘は本当にそうだと思います。今日も会議がありましたが、楽天的な人が多いのには閉口しました。それに自分の欲しい言葉だけ拾いい集めて、誰それがこういったから、ああいったから自分もとか........。文化は水の波紋のように、都から地方に広がっていくと言ったのは、柳田先生でしたでしょうか?不況も不確実性も、感染拡大も都から地方へ来ないのか?と、自分は憶病なので毎日戦々恐々としています.....。ナチスユダヤ人収容所の方々も、楽観的な人ほど寿命が短かったと言っていたのは誰でしたでしょうか?

コロナ危機の次は世界経済が崩壊する

 世界各国では、国の支援策が公的債務を急増させている。この政策は将来に負担を課すことになる。経済の崩壊を防ぐために、民間銀行とこれを支える中央銀行が無制限に信用供与している。経済がグローバル化して以来、この異次元の政策を真っ先に導入した国はご存じのように日本だ。つまり、今回の危機により、世界の「日本化」が始まったのである。だが、この政策により、将来世代や社会的弱者にしわ寄せが生じる恐れがある。

 また、自動車、航空機、工作機械、ファッション、化学、プラスチック、化石燃料、ぜいたく品、観光などを中核とする現在の経済モデルは持続的でない。問題を先送りにしながら経済をまかなうには、政府と中央銀行は拠出を増やし続けなければならない。公的債務は毎年増加し、最も信頼のある中央銀行であっても、最終的には行き詰まる。

国民の命を大切にせず、環境に配慮しないこのような経済モデルでは、人々は孤立し、精神障害、暴力、飢餓、そして思わぬ病気が多発するだろう。このままでは、いずれ未曽有の金融危機が発生する。零細企業から大企業へと順に苦境に陥るが、国の支援はいずれ限界に達する。

 下記を読んでいて、リズミカルな小説ってなかったのだろうか?と、ふと思いました。詩は小説になるか?リズミカルな小説などで検索してみたら色々出てきましたので、機会があれば見てみたいですね!自分は絵と工芸の間を目指して作品を作っています。

 らためて強調しておけば、本論にとってとりわけ住なのは、「再現の対象としての現実」から「私たち自身という現実」への転向が、身体の発見に通じるということである。

 ァレリーによれば、ヴァレリーの理想とする詩と散文のあいだには、その読者のあいだに「容易に観察される身体的特徴」(EI,1374)の差異が見出されるという。

 ず、小説の読者について。小説の読者は「想像的生のうちに没入して」おり、「彼はただ精神のうちのみに在り、動き、行動し、悩む」(ibid .)。そのあいだ、「彼の身体はもはや存在しない」(ibid .)。

 説の読者はみずからの身体を忘れ、物語世界に没入してある登場人物の味方をしたり、喜んだり、悔しがったりする。「彼はもはや自分自身ではなく、外的な諸力から分離された一つの脳髄にすぎないのである」(ibid .)。