昨日は一昨日と同じような勤務で、送迎と入浴介助と、ギターを弾いていたら、あっという間に1日が終わりました。皆さん笑顔で終われたこと、感謝です!
本当に下記のようになるのでしょうか?今読ませて頂いている、樫村愛子先生の本は2000年前後(2冊同時に読ませて頂いています)のものですが、その時に既に新自由主義に対する批判がありました。SDGsなんかもそれを全面に出さないと企業としてやって行けないからやっている感も否めません。
パンデミックが新自由主義の終焉を告げる
今回のパンデミックは、新自由主義の終焉を告げるものとなりそうだ。新自由主義は、連帯よりも競争、政府介入よりも創造的破壊、社会福祉よりも経済成長を重んじると大まかに定義される概念や政策の集成である。
(新自由主義が志向する「小さな」政府とは逆の)新しい「大きな」政府の重要な要素の一つは、すでに始まっている。ごく短期間のうちに急激に拡大した政府による経済支配だ。
ちょうどパンデミックが世界を覆い始めた2020年4月、世界各国の政府が合計数兆ドルもの景気刺激策を発表した。政府は、社会福祉給付の拡大、国民への直接的な現金給付、賃金の補填、借入金や住宅ローンの支払い猶予などの措置を取った。今後、政府は、社会の利益にとってベストであるとして、程度の差こそあれ、ゲームのルールを一部書き換え、政府の役割を恒久的に拡大させようとするだろう。
エッセンシャルワーカーの待遇改善が期待できる
また、このパンデミックの意義(の一つ)は、生活に不可欠で本質的な価値のある仕事に対し、それに見合う報酬が支払われないという、根深い乖離が明らかになったことだ。パンデミックによって私たちが気づかされたのは、コロナ危機のヒーローやヒロインたち、感染者を看病し、経済を動かし続けてくれた人々が、最も賃金の低い職種であったという事実だ。看護師、清掃業者、配達員、食品工場や介護施設、倉庫の労働者などである。
パンデミックが終わったら、少なくとも短期的には、不平等は拡大することが予想される。しかし、当面の危機を乗り越えた後には、風向きが一変し、逆方向へ向かう可能性がある。アメリカでは、多数派や積極的に発言するマイノリティが、医療システムを政府やコミュニティの管理下に置くことを求め、欧州では、医療制度の財源不足がもはや政治的に許容されないという事態になる可能性もある。
私たちはついに、パンデミックにより、本当に価値のある仕事とは何かを再考し、社会に不可欠な仕事に従事する人々に社会としてどう報いるか見直さざるを得なくなるかもしれない。楽観的なシナリオでは今後、私たちの間で、社会全体の福祉に極めて重要な役割を果たしているのは給与が低く不安定な職に就いている多くの労働者であるという認識が高まり、低い報酬を改善するような政策が取られるようになる。
樫村愛子先生の本を選んだのは、下記の本の影響です。ラカンが専門のようですが、ラカンを分かりやすく記述してくれているので、初学者には助かっています。竹中先生もフロイトの心理学草案を分かりやすく記述してくれています。固着点とか死語扱いされていますが(笑)、本当にそうなのか?最近特に思います。
〜ところで「その多くの特徴は、幼児期の生活にかかわるものである」(pp.279.=280)。
「マゾヒズム的な空想の顕示的な内容においては、罪責感が表現されることがあるが、この場合に暗黙のうちに想定されているのは、空想の主体はなんらかの罪を犯しているのであり(罪の性格は不確定なままである)、さまざまな苦痛と拷問の手続きによって、それを償わなければならないことである」(p.280)。
ここで特徴的なのは、まず空想の顕示的内容において罰のイメージが存在し、その背後には罪責感があって、さらにその背後に罪、それも不明確な罪を想定しているという構図である。
普通は、まず罪があって、それが罪責感を生み、罰が生じると考えるのが自然な発想であろう。それとちょうど逆方向の構図が用いられているのである。罪があって罰が生じるのではなく、罰があって罪があるというわけである。
ともあれ、この「罪責感」こそが「幼児期の生活」と関わっているのであり、「この罪責の契機は、第三の道徳的なマゾヒズムへの移行をもたらす」(p.280 )。
「性愛的なマゾヒズム」、「女性的なマゾヒズム」に続く第三は、「道徳的なマゾヒズム」である。その特徴は、「われわれが性と呼ぶものとの結びつきが緩くなっている点」である(p.284)。
つまり、抽象度がより高い。「苦痛が愛する人物から加えられようとも無関係の人物から加えられようとも」構わない。「叩かれる見込みさえあれば、自分の頬を向けるのである」。
すなわち、性と愛による特定の個人との関わりに限定されないような抽象的な関わりが主な舞台である。しかし、それにもかかわらずフロイトは、このマゾヒズムもまた性的なものと必ずしも無縁ではないと考える(p.284)。〜