うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

工事と、大家さんのねこさんと、【最良の臨床家は、人として患者とそこに「在る」ことのできる人です。】

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  今日は、名古屋に行く予定がなくなり、調子の悪い利用者さんがおられたので、少し現場に入らせて頂きました。ちょうど屋根裏に銅板を張る工事の前に、ポリカーボネオトを外していました。今月末から工事が始まります。

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 帰宅したら、大家さんのねこさんが、今は亡きねこさんのような寝方で寝ていました(笑)。寒くないのでしょうか?随分肌寒くなりましたね。

 

 現場に行ったり帰宅したりしていたので、外出もままならず、本を読んだり、ギターを弾いたりで、事務仕事もありますが、休みは休むことにしています。

 下記は、今日読み終えました。現在、自分が現場で思っている事と一致しているので、オグデンから離れて、少しだけ医療人類学の方に入ります。東畑先生から、皆藤先生に行き、皆藤先生からクラインマン先生に行きつきました。それは、中井久夫先生からサリヴァンウィニコット、北山先生、クライン、タスティン、アルバレズ、リトルに行きついた様に、また違う角度で自分の中で派生して行っています。

 24歳で独立して、最初は仕事が無くて、仕事取ろうと必死で働いて、身体を壊してしまったこともありました。救急車で運ばれ、気が付いたら病院のベッドにいて、ニトログリセリン!って叫んでいてのを思い出しました。中々体調が戻らずに、その病院の先生が京都大学出身だったので、京大病院を薦められ、通院を始めましたが、学生に診察の様子を見せる代わりに医療費はただにするとのことで快諾し(笑)、いざ診察になると、その教授らしき先生は体に指一本触れることなく、カルテをさらさらと書いて、ハイ次はいついつね!って。体調の悪さも手伝って、先生は凄いですね!患者に指一本も触れないで、きちんとした事も聴かないで診断できるんですね!って、嫌味を大声で言っていた自分がいました。まるで、クラインマン先生の本の内容の様だったなと、今この本を読ませて頂いて昨日のことのように思い出しました。喘息も酷くなっていたので、受診待ちに過呼吸で倒れたこともありました。今から思えば、自律神経失調症だと思われますが、運ばれた時には虚血性心不全といわれて、体力には自信がありましたが人間ってこんな簡単に崩れるのか?と思ったことも、思い出しました。

 モラルトリートメントでは、精神に不調をきたした方々は、暫くすると治って普通の生活に戻ったと書いてあり、それが段々専門性を(医師など)持った人間が携わるようになると、治癒が難しくなってきたと、何かに書いてありました。ブログを遡ればどこかにかいてあります。

 現場でも、限界はありますが、誠意を持って支援をさせて頂いていたら(自分を出すのではなく相手のことをまず考える)、きちんとした支援になります。当たり前のことが、当たり前にできない程、大変な仕事をしているのでしょうか?人間として認め合うだけでほぼ支援は成り立つと思われますが.......。

 本は、同じくクラインマンの、病いの語りに入りました。

 

ケアをすることの意味

病む人とともに在ることの心理学と医療人類学

皆藤章[編・監訳]

アーサー・クラインマン/江口重幸/皆藤章[著]

第2部

第3章 病と人間的体験

ケアをすることと現前性

 こころここに在らずといった機械的なケアとは、人に注意を払わないものです。患者が医者に交渉しようとおもっても、医者のこころここに在らずで、その患者が何か言う前に医者は処方箋を書いてしまい、患者に説明したり語ろうともしたりしない。

 こういう状態を医者がそこに存在しない、つまり不在であると言います。

 では、「現前性」とはどういう状態ことを言うのでしょうか。

 それは、機械的にそこにいるのではなく、人としてそこにいるという在りようを言うのです。こころを込め、全身全霊でそこに参与することです。それが現前性です。

  最良の臨床家は、人として患者とそこに「在る」ことのできる人です。患者とともに在り、特別な存在であることを患者に感じてもらうことができる人を言うのです。

  最良の臨床家は、患者に、良くなってもらいたいと願いながらそこにともに在るということができる人です。このことは、ケアをすることにおいて、途方もなく重要なことだと言えます。

いのうえっちの誕生会と、Google Design Studio | commaと、【愛情の拒絶のひとつひとつが喪失を意味して患者に葛藤をもたらす。そしてこの葛藤が、他人の現実性を認識する能力と自発性の焦点となる。】

 

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 昨日は夜勤で、夕食は誕生日のいのうえっちの希望で、ガストさんに行きました!

女子が中心のテーブルはBセットで、男子が中心のテーブルはAセット。Bセットの方がスープが立派でした(笑)。女子は強し(笑)です!予算が一人1,000円とのことでしたが、そんなの無理な話でしたので(笑)、もう少し上げてもらうように理事長にお願いして(笑)交渉成立してから(笑)注文を開始!ドリンクバーを注文していないのは自分だけでした.......。

 

 

 夜勤明け、インフルエンザの予防接種をしに、近所の医院に利用者さんと職員とで行きました。順番で行っているので、ちょうど半分くらいでしょうか?

 本をファミマで読んでから帰宅したら11時になっていました。

 

 

寝ようか?寝ないでおこうか?といつものように(笑)、悩みながらギターを弾いていたら夕方に.....。メールやネットのニュースをチェックしていたら、ジャパンデザインネットさんに、下記が出ていました。今月の一番忙しい時期なので行けませんが、内容を見ていると行きたくなりました。

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  下記は、オグデンに戻っています。葛藤をなくして行くのが自分たちの仕事でもあるので、喪失したものを一緒に時間を過ごすことで、一緒に見つけてそれを取り戻すことができるように出来れば、少しでも生き辛さがなくなるのではないか?と、思っています。それは個々に違うものですが。

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 これら「無視され、放置され、あるいは失望させられる状況」は、あらゆる重要な人間関係に現れ、人生の、そして分析の日常的体験の一部でもある。

 愛情の拒絶のひとつひとつが喪失を意味して患者に葛藤をもたらす。そしてこの葛藤が、他人の現実性を認識する能力と自発性の焦点となる。問題の中心は現実を判断する能力にある。

 実際の死別に関しては、フロイト(1917)は「リビドーが失われた対象にご固着していることを示す記憶と、期待する状況ひとつひとつが、対象はもはや存在しない、という現実の審判を受けることになる」と記述している(p.255)。

本が来たと、小さな送別会と、インフルエンザと、【暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない。】

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 今回、注文した一連の本の最後のが来ました。読んでおきたかった本なので、他の本ともに、非常に楽しみです!現在の本は半分を超しました!皆藤先生の言わんとされていることが、より深く理解できそうです。(現在読ませて頂いている本ですが.....)

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 今日は、うたたね発発足以来、送迎を中心に休むことなく頑張って頂いていた職員さんの送別会でした!エディプスをきちんと超える事が出来ていない方々には、本当に父親代わりになって支援もして下さってくれていたので、体調不良で残念でした。

 若い時分は、仕事で海外に数多く行っておられた様で、外国で西条八十とか、美空ひばりさんとかとお会いされていたようで、沢山の思い出話をお聞きすることができ、逆に励まされました!本当にありがとうございます!お疲れ様でした!

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 今日は夜勤ですが、早朝からばたばたとしていて、利用者さんの通院にも行きましたが、インフルエンザの患者さんがもう出ているとのことでした。今年は例年よりも早いので、インフルエンザの予防接種に順番に行っています。

 

 下記は、昨日の続きでで、中動態の世界からです。現在読ませて頂いている、クラインマン、江口先生、皆藤先生の本に、アート(テクニー)という言葉が良く出て来ていますが、創造ということが、アートなんだなと思っています。

 下記のアレントは、非常にはっきりしていますね!
 

 権力と暴力は同居できるか 

 ~フーコーの理論構成によれば、暴力は権力によって利用可能だということになる。対し、アレントの理論構成では、暴力は権力を破壊するのみで、権力が暴力を利用することはありえない。アレントははっきりと次のように述べている。


 要約しよう。政治的にいうとすれば、権力と暴力は同一ではないというのでは不十分である。権力と暴力は対立する。

 一方が絶対的に支配するところでは、他方は不在である。

  暴力は、権力が危うくなると現れてくるが、暴力をなすがままにしておくと最後には権力を消し去ってしまう。ということはつまり、暴力に対立するのは非暴力であると考えるのは正しくないということである。

 非暴力的権力というのは、実際のところ、言葉の重複である。暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない。

きれいな月と、ハンナ・アーレントと、中動態の世界【「銃身からは決して生じえないもの、それは権力である〔what never can grow of [the barrel of a gun]is power〕」】

 

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 昨夜、職員さんから、うたたねからきれいな月が見えていると、写真が送られてきました。自分の携帯では、こんなにきれいにお月さんが写らないので、羨ましい。

 今日は、オグデンを休んで(笑)、1冊前に読ませて頂いた、中動態の世界に、ハンナ・アーレントが出ていたので、『イエルサレムのハイヒマンー悪の陳腐さについての報告』を思い出し(出て来てもいますが)、映画も思い出したので、なぜか?見たくなったので、勝手にアップさせて頂きました。

 哲学は自分にとって難解ですが、ハイヒマンのようなものは、分かり易くて勉強になります。自分たちもただ言われたことをやるだけでなく、行為自体に疑問を持ちながら行うようにすると、もっと身につくし、違う視点からも見る事が出来るようになるとも、思われます。

 

 

 今日は中抜け勤務で、早番と遅番なので、早めのアップです。

 

 

 下記は、立派な言葉ですが、今の世の中、権力と暴力は表裏一体化していないでしょうか?服従は支持だとも言われますが、それは能動態と受動態だけの世界で見るからでしょうか?受動態は、中動態から派生したものと書かれていますが、中動態からみれば、服従は支持にはならないのでしょうか?

 例えとして「雨が降っている」という文章が出て来ましたが、主体がないので中動態と考える事ができる文章でしょうか?自分にはまだまだ、わかったような、わかっていないような。きっとわかっていないと思います(笑)。

中動態の世界意志と責任の考古学
國分功一郎
第5章 意志と選択
9 アレントと一致の問題アレントもまた暴力と権力を区別しているが……
  ~アレントは権力を定義して次のように述べる。
 「権力(power)は、ただ単に行為するだけでなく、一致して行為する〔act in concert〕人間の能力に対応する。権力は決して個人の性質ではない。それは集団に属するものであり、集団が集団として維持されている限りにおいてのみ存在し続ける」
 権力は集団的なものであり、複数の人間が一致して行為するところに存在する。ここからアレントは権力と暴力の違いを次のように説明するに至る。すなわち、権力の特質は人間が一致して行為するところにあり、暴力によってはそのような一致はもたらしえない、と。
 アレントは他ならぬ銃の例を取り上げ、次のようにはっきりと述べている。
 「銃身からは決して生じえないもの、それは権力である〔what never can grow of [the barrel of a gun]is power〕」。

 

本が来ましたと、バズワードは実現すると、【メランコリーにおいて病気を生み出すきっかけは、ほとんどの場合死別という明白な状況にとどまらず、無視され、放置され、あるいは失望させられるといった状況すべてを含んでいる。】

 

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 本が来ました!本当に読みたかった本なので購入させて頂きました。ひと月に2~3冊読ませて頂いているので、これで今年読む本は大丈夫です。京都時代も美術書(写真だけでなくて解説なども)を買い始めた時は、全然理解できず、苦しみましたが、2年くらい頑張って読んでいたら徐々に理解できるようになりました。現在ももう5年目くらいになっているので、難しい学術書ですが、少しずつ早く理解が出来るので早く読めるようになりました。本当は、臨床人類学をもっと早く読みたかったのですが、値段のこともありますが、アーサー・クラインマンの分かり易い本から読ませて頂いてから(現在読ませて頂いています)、こちらに入らせて頂こうと思っていたので遅くなりました。この二冊は、今から楽しみです。

 

   この地域では、台風の山を越えた頃に、身体を休めさせて頂きましたが、テレビをつけると大変なことになっています。自然の前には、結局人間なんて非力ですね........。

 

 テレビを正視することができなくなり、ネットを開いたら下記がありました。

 

 皆藤先生も同じようなことを言われていますが、ノーベル賞を受賞された吉野先生も下記のインタビューで、インターネットの技術が発達したことにより――玉石混交とはいえ――情報は簡単に入手できるようになりましたし、世間では「もはや、自然界で新しい発見はなく、全てが分析され尽くしている」というようないいかげんな言説も目立ちます。いやいや、生命の神秘や脳の働きなどはまだ分かっていないことばかりですし、電子の世界でもイオン(正または負の電気を持つ原子)の世界でも、はたまた超深海でも宇宙空間でも分かっていないことは、たくさんある。 実際、世界は謎に満ちていますし、ネタはいくらでも転がっています。』と言われています。

 努力されて人様が作った物を、ネットで見ただけで、あたかも自分が考えたような気分になってしまうという怖さがネットにはありますね......。

 順番は違いますが、 ~しかし、日本では理工系の学生がメーカーに就職せず、ITサービス産業に向かうという変化が起きています。NTTの研究所からも、米グーグルなどに転職する研究者が後を絶ちません。化学メーカーは、子ども向けの化学教室などを開いていますが、化学の力で世の中を牽引した高度成長期とは異なります。

 若い人たちの目が化学に向かないという点については、私としても危惧しています。小さな子どもたちを含めて、若い世代に対しては、「化学の面白さ」を訴えていかなければならないと考えています。個人的にも、そう思う。』というのは、教育の在り方や、報道の仕方にも問題が山積されているのではないでしょうか?お金になる人間を作ってそれにあやかる(笑)ような報道の在り方は、即刻是正を求めますし、教師自体が人の痛みを知らない人間が多いのに(知っておられる方も知っていますが)、思いやりのある人間が育つのでしょうか?企業も即戦力ばかり求めて、育てると言う意識(余裕がないのかも知れませんが)がない中、目だつことだけを選択して仕事を選んでしまっているのではないでしょうか?本当に仕事が好きでないと、新しいアイディアなんか生まれませんし、粘り強く一つのことに向き合うと言う事も出来ません。本当に大事な物を、皆藤先生も吉野先生も、真摯に求めて来られてきたのではないのか?と下記を読ませて頂き、感じました。

 

 

 

  しばらくオグデンからの引用が続きますが、オグデン自体も今の若い方々には古典になってしまうのかも知れませんが、オグデンの様な凄い人でもフロイトをきちんと読んでいます。基礎が大事というのは、頭で分かっているだけでは何の役にも立ちません。身に染みて初めて気が付く物ですね......。逆にそれに気づいたときには、成長した証なのかも知れません。

 人は見られていないと、死んでしまう。そういっても信じて頂けないのも無理はありませんが、本当にそう思う事に出会ったことがある方もおられるのはないでしょうか?ガンジーも、人間が一番つらいのは無視される事だと言っていました。命の灯が消えないように、人間は防衛に走るのかも知れませんね。

 

 ~フロイト(1923)は、この感情がメランコリーにおける死の恐怖と関連があると述べている。メランコリーにおいて「自我は超自我に愛されず、無性に憎まれ迫害されていると感じ、自身を放棄する。つまり自我にとって、生きることは愛されることーー超自我に愛されることなのである」(p.58)。


 それに先立ち、フロイト(1917)はメランコリーを愛情喪失について病理的に悼み悲しむかたちとして記述した。

 

 メランコリーにおいて病気を生み出すきっかけは、ほとんどの場合死別という明白な状況にとどまらず、無視され、放置され、あるいは失望させられるといった状況すべてを含んでいる。この状況は愛情と憎しみという相反する感情を関係にもたらし、あるいはすでに存在しているアンビバレンスを強化する。(Freud1917,p.251)

 

 

ワークショップのテストと、台風と、【すなわち臨床的なうつ病患者が苦しんでいるのは主に不安や迫害感であり、不満を抱き続け、躁的、強迫的防衛を用いて喪失を否認しようとするのである。】

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 来年の博物館さんでのワークショップの見本を作って、画像を博物館さんに送らせて頂きました。秋は博物館さんも忙しいようですね。芸術の秋ですものね!

先日、博物館さんから頂いた図録から勝手にチョイスしただけですが(笑)。でも、きちんとアートですね!太古の方々のデザイン力には目を見張る物があります。

 

 

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  凄い台風が来ていますが、近くの巨大なアンテナに足場が組んでありましたが、強風で飛ばないのでしょうか?崩れて飛んだらえらいことになりますね......。

 自然の脅威にはただただ、祈るしかありません.....。

 

 

 クラインの書いた物や、クラインを解説した本などを読まないと、下記のように混同してしまうのも当然かもしれませんね。そしたら、自分は何に対しての不安感なのか?迫害感なのか?なのに対して、躁的、強迫防衛をしているのか?ただ単に現在の自分に不満を募らせているのか?何なのでしょう?

 

  ~〈抑うつdepression〉ということばが混乱を招くのは、悼み悲しむ状態と、悲しみに対して向けられる防衛により生ずる状態と、その双方にこのことばが使われるからである。

 喪失とそれを悼み悲しむほうへ向かう道のりは、痛みを伴う抑うつ的感情、すなわち罪悪感、後悔、自責、そして償い修復したいという願望を伴う。これらの感情状態をクラインは抑うつポジションと名付けたが(Klein,M.1952a)、それはうつ病に見られる感情とは極めて異なっている。

 両方の状態が混合しているのが普通であるが、重症のうつ病やメランコリーは喪失に対する防衛によって、したがって抑うつポジションに関連したこれらの感情すべてに対する防衛によって生じる。

 すなわち臨床的なうつ病患者が苦しんでいるのは主に不安や迫害感であり、不満を抱き続け、躁的、強迫的防衛を用いて喪失を否認しようとするのである。

本が来ました!と、片付けと、【悲しみの早期段階では、この葛藤は無意識のうちにあり、喪失を否認し、対象を所有し内在化する働きが自動的に生じ、主体的に選択したものとして体験されることはない。 】

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  中動態の世界も、後1章を残すだけとなり、次に読ませて頂く本が来ました。読み終わったら、少しずつ読んでみてから、どれを読ませて頂くかを決めたいと思っています。東畑先生と、皆藤先生の著書を読ませて頂き、アーサー・クラインマン先生の本を読まないといけないと思っています。スーザン・ソンタグは、アーサー・クラインマンの本を探していた時に出会って、タイトルに惹かれて購入させて頂きました。

 

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 昨日は休みでしたが、午前中は自分の受診で豊橋まで行き、戻って来てすろーじゃむに行って、片付けをさせて頂きました。昨日は資源化センターに大量に衣類と金属製品をを捨てに行きました。その中に、白州のグラスがあったので、頂きました(笑)。ウィスキーは、自分には高価なので買えませんが(笑)、雰囲気だけでも味あわせて頂きました。中々絵になるグラスでした。

 

 オグデンがしばらく続きますが、現場でもひどく躁的防衛や、妄想ー分裂ポジション的な状況にある時には、どんな支援も役立ちません。ただ嵐が過ぎるのを待つように、寄り添いながら、同じ時間を過ごさせて頂くしかありません。自分の身に危険が及ぶ時もありますが、自分的には大丈夫ですが、上手く対処できない職員んさん達には、自分が介入させて頂いています。何事も無理は禁物です。

 落ち着かれたら、少しずつ支援法を考えながら、その方の心の深い所に届くように、こちらも少しずつ行っていくしかありません。嵐が新しい関係性や、その方の心の中のコンスタレーションの変容がある時が多く、何かしらの変化が感じられるときがあるので、それをきちんと見極めて支援方法を構築していければ、お互いが成長できます。繰り返しますが、魔法なんてありませんので。

 

  たいていは不承不承ためらいながらではあるが、私の患者は対象を放棄する方向へと変化し、同時にメランコリー的な妥協をも断念し、現実に向き合い、新しい関係を形成することができるようになった。

  悲しみの早期段階では、この葛藤は無意識のうちにあり、喪失を否認し、対象を所有し内在化する働きが自動的に生じ、主体的に選択したものとして体験されることはない。  

 後期の段階になり、現実を受け入れることができるようになるにつれ、この選択はあきらかになり、意識的なものとして体験されるようになる。~

片付けと、バウハウス関連のドキュメンタリー映画6作品を上映する「バウハウス100年映画祭」が11月23日より開催と、【この新しい対象が、患者のこころの平衡状態についての元の対象が保っていたのと同じように役割を果たすのである。】

 

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 今日は休みで、事務仕事も片付けた後で、私用も久し振りになかったので(笑)、すろーじゃむの通路に置かれた物の片付けに行って来ました。蚊に沢山刺されて(笑)、捨てに行くまでは出来ませんでしたが、明日使用を済ませたら、捨てられるものだけでも捨ててこようと思っています。強い台風が来ているので、それまでにとも思いますが、中々時間がとることができず今年一杯猶予を頂きたいですね......。本当は自分達には非はありませんが......。

 

 蚊に沢山刺されて(笑)めげて帰宅したら、ジャパンデザインネットさんからのメルマガが来ていて、下記がありました。バウハウスは物作りの端くれだった時分に、本を買って真剣に読んだ記憶があります。行って見たいな!と言う気持ちを抑えるのが大変でしたが、夢かなわず、棺桶に片足突っ込んでいます(笑)。6本もバウハウス関連の映像が見れるなら、行きたいですね!11月は忙しいので、言いだせるでしょうか?

 

https://www.japandesign.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2019/08/Bauhaus_visual_01-399x560.jpg

https://youtu.be/8JNT4O2OsKM

 

 下記のイベントの情報もありました。講演会に興味がありますが.....。

 

 

 下記は、直面化から逃れたら、また直面化を繰り返してワークスルーしたらこうなる的なことを、記述してくれている感じがします。防衛と言うのは、ありとあらゆる形でなされるので、気が付かない方が多いのかも知れませんね。その時に利用できるのが逆転なのかも知れませんが、本当に真剣に向き合わないと、自分の中に起こっている逆転移すら感じないのかも知れません......。

 

 ~もし現実に向き合うことができないときーー少なくとも当初、喪失が重大で苦痛に満ちているときーー防衛的なプロセスが動員される。 その結果、喪失は否認され、メランコリーのほうへと導かれる。

 私が述べる患者においては、これらの防衛プロセスは多種におよんでいて、躁的な勝利感、強迫的コントロール、そして対象に対しサド-マゾヒズム的に屈辱を与えることなどを伴っていた。

 何年間もの分析を経て、これらの防衛プロセスはしだいに万能性と毒性を減じていった。しかし万能性と毒性が減じるにつれ、患者は対象に対しなしてきたことに向き合い始めなければなるなくなる。こうして患者はフロイトが「悼み悲しむこととメランコリー」(Freud,S.1917)において記述したのと同様の内的状況に直面する。

 すなわちダメージを受け、非難に満ちた内的対象が内在化され、具象的な対象として保持され、「自我に影を落とす」。メランコリー的解決法では妥協が形成され、対象は外的世界にはもはや存在しないが内的対象として保たれる。

 この内的対象はこころの中の世界に所有され、コントロールされ、そして新しい対象に投影される。この新しい対象が、患者のこころの平衡状態についての元の対象が保っていたのと同じように役割を果たすのである。

昨日のうたたねと、【彼女の言っていることは真実なのかそうでないか、どちらかでしょうが、それはあなたが自分自身で見いださなければなりません。】

 

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 親分についてこいと言われてついて行った眼鏡屋さんにあったポップですが、ギターでなくてベースと言うのはマニアックと言うか、三味線より一弦多いから、ベースにしたのでしょうか?ベースの方が、ギターよりも音楽を構成している感がありますから。

 

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 昨日もうたたねは、賑やかでした!昨日は遅番、今日は中ぬけで、早番と遅番の勤務です。一番忙しい時間帯ですが、そこをきちんとケアできれば、みなさんにとって、良い一日として終わることができます。給与計算も今終わり(笑)、少し休憩したら遅番の時間ですね(笑)。でも楽しい時間帯です!お互い、本当の自分が出せるのが良いですね!

 

 

 

 うたたねは、クライン派を基に支援方法を組み立てています。勿論、合わない方にはアレンジさせて頂いたり、他の理論で組み立てて頂いていますが、下記の文章は、子どもだけでなく、大人でもあてはまる物だと、個人的には思っています。オグデンは、決してクライン派の批判だけをしているのではなく、彼の理論との比較で、自分ならこう考えると、個人的にはそう感じました。次回からは、対象関係論に対して、批判的な文章が続きますが、それを上手く活用できるか否かは、自分次第ですね。

 

2.メラニー・クラインの業績における本能、幻想、そして心理的深部構造
 
 もし、あなたが子どもの精神分析的の治療にとりかかりたいなら、メラニー・クラインに会うといいでしょう。

 ……彼女の言っていることは真実なのかそうでないか、どちらかでしょうが、それはあなたが自分自身で見いださなければなりません。

 メラニー・クラインが教えることを、私との分析であなたが得ることはないでしょうから。
    

(ジェームス・ストレイチィから、彼の被分析者、ドナルド・ウィニコットへの私信より)

 

竹内敏晴先生と甲野善紀先生と、【臨床精神分析のおもな目標は、個人内部の(intrapersonal)および対人的な(intrerpersonal)対話から隔離された、すなわち自己疎外されたパーソナルな体験の漸新的再獲得である。】

 下記のオグデンを読み返していたら、竹内先生の、自由とは奴隷から生まれた言葉だ!を、なぜか思い出しました。以前親分が見ていたDVDの甲野先生との対談の長い(笑)ユーチュブがありましたので、貼り付けて置きました。

 

 今日は遅番で、離れた街への受診の付き添いなどもあるので、その前にアップさせて頂きます。

 

 

 アップは、オグデンに入りました。冒頭からオグデンのすごみが出ていて、読み始めは、圧倒されっぱなしでしたが、段々慣れて来て、十分には理解は出来てはいませんが、臆することなく読み終えた記憶があります。シュタイナーも、オグデンも、一番著名な本は、古本で高価になってしまっているので、それに近そうな、原価で売っている本を選択するしかなくなっています......。

 

 今、現場で問題視している、エディプスをきちんと通過していない方たちの支援方法。エディプスを越えていないと言うのも、疎外されたものに入るのかも知れませんね。その疎外されたものを取り戻す作業がやはり必要なんだと思いました。

 

『こころのマトリックス対象関係論との対話
T・H・オグデン著
狩野 力八郎監訳
藤山 直樹訳

1.精神分析的会話
 ~歴史と過去とは違う。それは、過去が単にできごとの集積であるのに対し、歴史は過去に対する私たちの意識的無意識的記憶を反映した創造物であり、過去に対する私たちのパーソナルなそして集合的な描写であり、歪曲であり、解釈であるからである。

 私たちに先立つ、そしてある意味では現在における私たちを創造した対話の歴史から、自分自身を隔離してしまうと、私たちは、自分が創造している象徴、観念、感情、芸術、仕事を通して自分自身を十分に認識し理解するということが困難になる。

 対話の一部から自分自身を隔離するとそれだけ、私たちはいきいきとしていられなくなる。それは、そのぶんだけ、私たちが自分自身として(すなわち自己内省的に)存在できなくなるからである。

 臨床精神分析のおもな目標は、個人内部の(intrapersonal)および対人的な(intrerpersonal)対話から隔離された、すなわち自己疎外されたパーソナルな体験の漸新的再獲得である。そうすることは、被分析者が、自分は誰で自分はこれから誰になろうとしているのかを、より十分に認識し理解することを可能にする過程である。

 疎外されたものを取り戻すうちに、被分析者は主体的で歴史的な人間存在としてより豊かに生き始める。彼は、より豊かな(より自己疎外されてない)個人内部のおよび対人的な対話を営むことができるようになる。彼は自分自身からかつて隔離していたものを恐れなくなり、そのぶんだけより自由になる。