うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日撮った写真と、You are Artと、【いろいろな紆余曲折を経て、マゾヒズムの問題は、特殊な病理的現象に限られるのではなく、自我と超自我をめぐる本質的な議論の中心に位置するようになっていったのである。】

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 上の二枚は昨日撮った写真です。なんとなく気に入っています(笑)。下の方は歩いて行ってきちんと写して作品にしたいですね!
 今日も日勤でしたが、午前と午後に通院介助があり、現場にきちんと入れたのは、夕方の男子の入浴介助だけでした。初めて介助させて頂く方がいて、とても楽しみにしていました。普段はあまり笑わない方のようでしたが、入浴介助は良いですね!頭や身体を洗わせて頂いたら、気持ちがよいとニコニコしていただけました。こういう場面があると、この仕事をやらせて頂いて本当に良かったな!と思えます。勿論、それなりの勉強と実践は必要ですが!

 そうそう(笑)。3月でしたね!何日か前から朝に更新するようになっていたので、今日は2つアップしてしまいました(笑)。

 

 下記はネットのニュースを見ていて出会ったものです。SDGsは大衆のアヘンだと個人的には思っていますが、このビデオはそんなこと関係なしに、表現というカテゴリーで見ることが出来ました。障がいをお持ちの方々の寿命は短い場合が多いかも知れませんが、色んなことが出来なくなっても、例えばアートや音楽の分野で、その時々に出来ることで楽しめれば別に良いと思うのは自分だけでしょうか?昔はこんなんじゃなかったって......。いまここで生きていることの方が大事なので、いまここで出来ることでenjoy出来れば良いですよね?未来の為にも今が大事です!

 

 生まれつき耳の聞こえないヒーローは母親の猛特訓により口話を身につけ「普通の学校」で育った。そしてひょんなことから舞台で主役になり、俳優、ダンサーの道を志す。「自分らしく生きられるように」ヒーローが手探りで見つけてきた「普通」の壁への挑戦とは。


  今は何冊か並行して本を読ませて頂いていますが、こちらは読み終わたのに、こちらに意識が来てしまいます。特に樫村先生の本を読んでいるときに!

 その時にはいい思い付きだと思っても、対象が変わったり、環境が変わればまた新しいやり方を考えないといけないことは日常茶飯事ですね。いちいちあの時はああいっていたとか、こういっていたとか言っていたら、変化のスピードがどんどん速くなっている現在について行けなくなってしまいますね。間違いとか、これではもう通じないと思ったら再構築していくしか手立てはないし、また巡り巡って、以前の方法が使用できる時もあるので、振り返りが出来るときにはきちんとした振り返りも必要ですね。下記を読ませて頂いている中で、そんな思いが湧きました。「陰性の治療反応」的なことは現場でも良くありますが、それを相手さんと一緒に抱えて、一緒に乗り越えることが出来ないと、お互いに何も前に進むことが出来ませんし、毅然とした態度が必要な時もあります。

 〜こでフロイトが持ち出してくるのが、先に『自我とエス』で見た「陰性の治療反応」である(p.284)。

 我とエス』の段階では、「陰性の治療反応」を論じる際には未だマゾヒズム概念を用いてはいなかった。ところが、論文「マゾヒズムの経済論的問題」では、「陰性の治療反応」がはっきりと「道徳的なマゾヒズム」の例として取り上げられている。

 徳という一見抽象的な問題と、マゾヒズムという個人的な性や愛と深く絡み合った問題とが結びつけられたのが、「道徳的なマゾヒズム」である。

 に見た『自我とエス』では、「陰性の治療反応」はまず、超自我論との関わりで論じられていた「超自我サディズムと自我のマゾヒズム」の関わりへと議論が進んでゆく(p.291)。


 上、フロイトマゾヒズムをどのような議論の文脈で用いてきたかを概観してきた。いろいろな紆余曲折を経て、マゾヒズムの問題は、特殊な病理的現象に限られるのではなく、自我と超自我をめぐる本質的な議論の中心に位置するようになっていったのである。