うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、シャワーと、【それは、精神医学的な疾患も、明らかな精神病理もない、身体的な妄想のケースである。】

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今日も、蔵王山の展望台に行きましたが、お客さんが多くて、滝頭に変更して沢山歩きました。半分はジョギング状態なので、アップダウンもあり、結構運動した感がありました。

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 午後からは、白谷に行きました。ガラホではきれいに写せませんが、波が美しかったです!

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毎日、入浴時に自律神経が出て来るであろう箇所にシャワーをあてていたら、今日はたくちゃんが自分であてておられました!気持ち良かったのですね!やり続けていて良かったです。

 

 

 今日も早めに出て、ファミマで本を読んでいたら、臨床人類学でちょっと気になっている方の様な感じが出ていたので(利用者さんではありませんが)、アップささせて頂きました。副題にあるように、文化によって同じ病気や障害でも出方が違うと言うのは、納得できました。その文化も一つの国の中でも地方によって、また、狭義で考えると、家庭の中でも違うし、本当にアセスメントの大事さを痛感しました。主に身体化に対しして象徴的に現れるのでしょうか?

 

 

臨床人類学
文化のなかの病者と治療者
アーサー・クラインマン
第五章病気体験と病気行動の文化的構成(2)
第二節症例と考察

  〜中国人にみられる身体化のうち、私の出くわしたもっとも極端なものは、臨床的にめずらしいものなので論じる価値があるだろう。

 それは、精神医学的な疾患も、明らかな精神病理もない、身体的な妄想のケースである。

  たとえば、私は台北で別々の機会に男子学生二人と面接したが。二人とも最初は頭痛と視覚の不調を訴え、両方とも脳の障害が原因だと考えていた。内科・神経科の精査を受けたが器質的な病理所見はなかった。

 しかし、二人はこの検査結果を認めようとしなかった。脳がたしかに障害されていると信じていたのである。そこで、二人は精神科での精査を受けたが、そこでも重大な精神病理は認められなかった。

 しかし、これといった所見はないものの、“身体的妄想”があるからというのがおもな理由で二人とも“初期の分裂病”と診断された。

 二人の家族には精神疾患の既往はなかったし、大学では満足のいく成績をあげていた。
 どちらのケースにおいても、信念と知覚が混じり合っているために、患者は歪んだ(妄想的な)知覚を報告している。〜

 


 〜精神医学からすれば、患者は自分の知覚を固く信じていて、反証があるのを知ってもゆるがないし、知覚自体が体系的なので、これは自閉的というよりまさしく妄想的なものである。

 つまり、“現実の体系的な誤知覚”という妄想の定義に合致している。まちがった説明モデルをもった場合とはちがって、この種の説明は確固としてゆるぎないものだった。 

  変更を加えることはできなかったし、それについて患者と論じ合うこともできなかった、しかし、二人は精神分裂病にかかっていたわけではない。何か月か観察をしたが、ほかに思考障害は認められなかったし、ほかの妄想・幻覚もなく、おおむね適切なふるまいをし、てきぱきと行動していた。異常なのは、唯一、身体的な妄想だけだった。

 どちらのケースにも、躁鬱病や内因性鬱病はなかったが、双方とも強い情動変調を経験しており、何度も面接を重ねた末にかろうじてそれを認めた。


 〜しかし、いずれのケースにおいても、この身体にかかかわる妄想は、不安という受け入れがたい感情を、自他の目に触れないように隠してしまうことによって克服する、最終的な手段として機能していると考えられる。

偽物のおっちゃんと、グループホームの夜勤帯が常勤換算に入らないのはおかしい!と、【現実の危険は、乳児のもつ、そのような危険が存在する、という予期を確証するにすぎないのである。】

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 今日の夜勤時、偽物のおっちゃんが突然現れ(笑)、皆さんにちょっかいを出していました(笑)。偽物なので気を付けてくださいね!

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 皆さんには、大うけしていました!

先日、あるホームの方の成年後見人である弁護士さんが来られて、日中の施設で見た姿と全違って、こちらでは明るいですね!と言っていたと、主任さんから今日聞きました。

 うたたねは、まずは、安心・安全感を得て頂くことに徹しています。それがないと、その方の居場所も作れないし、本来の能力や、。サリヴァンが言うところの、この人に障がいがなければ、どんな人格だったのか?ということも、お互いに安心・安全感が無ければ、出せないし、出ないと思われるからです。

 会議など、なぜ日中の施設が中心になるのか?ふしぎで仕方がありません。障害の有無関係なく、基本は生活だと思われるので、生活の場が中心であるべきだと思います。

 日中で食事が食べられなかったって言うけれど、その手当や処置をするのは生活の場である入所施設やグループホームです。日中はその場をやりすごせればOK的な所があるので、自分は生活系を勉強したくて、日中は3年で卒業しました。日々の状態、特に健康状態は、いわゆる三大介助の中にこそ現れるものですし、睡眠の状態も重要なことです。なのに、なぜ日中の施設が偉そうに中心になるのか?不思議で仕方がありません。自分が日中の施設にいた時も、親御さんたちに、生活の状況も知らないのに、よくもまあ、偉そうに指導できるんだな?と、ずっと不思議に思っていました。

 生活を見させていただきというのは、命を見させて頂いていると言うことなので、本当に気配りが必要です。風邪やインフルエンザになれば、日中は来るなと言いますが、生活の場の方ではきちんと見ていますし、親御さんがおられなかったり、帰宅出来ない方には、病院にも一緒に行かせて頂くし、避難場所の確保もしています。生活系は逃げることは出来ないし、逃げません!

 それに、グループホームの夜勤帯が、常勤換算に入らないのはおかしい!

そしたら、常勤換算を埋めるために、無駄に夜勤帯以外につけろと言うことか?良い人材がこのご時世に、そんなに沢山集まるわけでもないのに、ましてや夜勤をしかも、重度の方々の夜勤をやろうと思う人が何人いるだろうか?大きく、広くされている施設は、結局、アルバイトや引きこもりの方を夜勤に雇用していたりしていて、何かあれば、責任を持った行動が出来るのでしょうか?専門性というのは、本当に大事だと思いますし、そんな簡単には身にはつきません。決して、アルバイトや引きこもりの方を軽視しているわけではありませんが、きちんと教育された方でないと、自分が親なら預けられませんね........。加算があるからって(笑)、そら夜勤は大変なんで、加算つけてもらわな、夜勤手当もでえへんわって思いますがね!と毎日文句が言いたくなる見解ですね!

 

 

 下記は、オグデンで、相変わらずどっちがほんまに言いたいことやねん?と。突っ込みを入れたくなるくらい(笑)難解ですが、今ここで起きていること全てを、乳幼児期に起きたであろうと言う、見方に対して、戒めているのかな?と思って読めば、個人的には納得がいきました。

 最後の『死の本能に結びついたコードにしたがった意味の系列にそって体験を解釈することは、よい体験があっても続くのである。』は、やはり、良い思い出や体験よりも、悪い思い出や体験の方が、心に残りやすいし、反応しやすいと言うことでしょうか?

 

  ~実際の体験は体験組織化の本能的な様式を支えるかもしれない。が、体験が解釈のために創造することはない。

 たとえば、持続的な母性の剥奪は、死の本能にそってなされる解釈の情緒的な強度を強めるだろう。実際の場合は、乳児が対象を危険なものとして体験する準備性を確かなものにするだろう。

 しかし、危険という意味は、剥奪そのものによって創り出されるものではない。現実の危険は、乳児のもつ、そのような危険が存在する、という予期を確証するにすぎないのである。

 それに加えてこのような危険への予期は、現実の危険がないからといって、まったく確証されないというものでもない。

 死の本能に結びついたコードにしたがった意味の系列にそって体験を解釈することは、よい体験があっても続くのである。

石巻の柿と、オーストラリアのコアラのチョコレートと、【母親との実際の体験の役割は、重要ではあるが二次的なものである。】

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 昨日は、美味しい柿を頂き、今日はコアラのチョコレートを頂きました。

自分では自粛して、あまり食べないようにしていますが、色々頂いたり、親分と食事に行ったらご飯や麺が1.5倍になるので、中々痩せません(笑)。断ればいいのですが、根が好きなので(笑)、止まりません.......。

 

 親分が携帯を忘れたので、自分は今日は休みでしたが、現場まで届けて来たついでに、マックで本を読みました。約400頁あり、やっと180頁です......。途中で違う本が読みたくなりますが(笑)、なんとか読み続けています。やはり、その国や、その地域や、その家族の文化の影響と言うのは、支援方法を考える上では非常に重要な事だな!と痛感しました。自分は大阪人なので、やっぱり大阪で残りの人生を過ごしたいなとも思いました。郷土愛と言うのには勝てませんね。

 

 母親との実際の体験の役割は、重要であるが二次的なものである。と、下記にありますが、良い思いでよりも、悪い思い出の方が強烈に残っていて、フラッシュバックした時に、自分には堪える事が出来ないこともあります。心的外傷でしょうね?母親の自死に伴う周囲の反応に、恐怖を覚えましたので、その時の光景が、嫌なことがあった時に、甦ります。自死した母親は、教育には厳しかったですが、9歳の時に自死したので、勉強以外は、唱歌を優しく歌ってくれて、買い物に行ったら甘味処に入って、ぜんざいやみつまめを食べた思い出しかありません。

 死の本能と生の本能のバランスで生きているという仮定で、考えるとフラッシュバックした時は、死の本能が優位になっているというだけのことかもしれませんね。そんな時は、クラインの言葉を借りれば、妄想ー分裂ポジションにあるので、ただただ、抑うつポジションに入るまで何をして過ごそうか?ただひたすら本を読む、ギターを弾く、酒を浴びる、オーバードーズする等々選択肢があるとは思いますが、その時の精神の健康状態がまだ元気なら(そうならフラッシュバックしないか?でも、オフラインでの精神は元気かもしれませんので!)、何かに夢中になる事で凌げるのかも知れませんね。

 現在読ませて頂いている『臨床人類学』は、皆藤章先生が、分かり易くまとめて下さっているように、生きたケア(自分達には支援)をするには、現場を生きた物にしないといけないので、自分の情けない体験や経験が、言葉では誰にも伝える事はできませんが、生きていると思っています。叢のなかに潜んで静かに獲物を待つヘビのように、より良い支援ができるものを、きっかけを静かに待つことができています。それが、細い糸ならば、慎重に引っ張りあげ、太い縄なら、力強く引っ張り上げていきます。

 

 女性の臨床心理士精神分析家の方が、分かり易く記述してくれますね。男は全員ではありませんが。ラカン風な人が多いので、初学者には難解すぎますね......。

 

前概念preconceptioと現実化realization
 ~「自我の強さはーーふたつの本能の融合の状態を反映してーー私の信じるところでは、体質的に決定されている」(Klein,1958,pp.238~239)。
 言語の深部構造に類似したコードというパラダイムを用いて、クラインのアイデアを次のように言い換えられるかもしれない。

 生と死の本能の相対的体質的な資質は、乳児が体験を解釈するためにどのコードに頼るのかについての決定因子である、と。

  死の決定にそって解釈された体験は、攻撃的で危険な意味を帯びるのに対し、生の本能によって組織化された体験は、育むような、愛情に満ちた意味として理解される。
 母親との実際の体験の役割は、重要ではあるが二次的なものである。

今夜も賑やか!と、【体験を組織する遺伝的な様式は、動物の本能に相当するものとみなすことができる。】

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 今日は遅番で、お昼から豊川の病院に付き添いで行かせて頂きましたが、帰る時に雷雨で、駐車場まで凄い勢いで雨が降り込んでいて、びっくりしましたが、渥美半島の方に入ると、道路が濡れていなくて、またまたびっくりしました。

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 夕食後は、急にイタリアの方が来られたり、中核派?が来たり(笑)賑やかで、

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 風船テニス?バレー?が急に始まったり、またまた盛り上がっていました!

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 音楽好きな、ゆうさんはギターを弾いている姿を、撮って!って、のりのりでした!

今日も何事もなく一日を終える事が出来た事、皆様に感謝しています!ありがとうございました!

 

 サリヴァンを読ませて頂いたときに、社会人類学文化人類学)も勉強しないといけないなって、思っていましたが、クラインマンを現在読ませて頂いていたら、そのあたりが出て来るので、サリヴァンの探究心を改めて凄いな!と思いました。シカゴ派の社会人類学者さんと研究していたような記憶がありますが、定かではありません(笑)。

 自分が心理学を学び始めた時に、やっと心理学も脳を触るようになった記憶があります。福祉も福祉だけ知っていれば良いのではなく、色んな知識が必要ですし、制度とかは変りはするものの、きちんと見れるので、現場での支援方法を考える場合には、本当に沢山の知識が必要になってきます。でも、一番下に見られる(笑)。平均して勉強が足りないのは分かっていますが、支援方法と同じで、勉強していると言うような硬さを感じる事無く、身に付けられるようにさせて頂くのも、自分たちの仕事のように感じています。結局は、どれだけ利用者さんが好きか?仕事が好きか?だけになるのでしょうが、どんな仕事でもその仕事が楽しいと思えるようにするのは簡単ですし、誇りを持つことも、少し周囲よりも学習するだけで得られます。

 

 下記は、生物学的な記述ですが.......。

 

  ~体験を組織する遺伝的な様式は、動物の本能に相当するものとみなすことができる。

  ひよこは刺激を組織化し反応するための遺伝的なコードをもっている。そのコードはどのような実際の体験にも先行する。たとえば、ひよこは捕食される危険を以前に体験したことがなくても、捕食者の翼の模様をみると、すぐ隠れようとしてよちよち走る(Lorenz,1937;Tinbergen,1957)。実際の体験がそれによって組織される。

 遺伝的なコードもしくは鋳型という概念の視点からみると、生まれもった「身体的衝動に内在する……知識」(Isaccs,1952p.94)というクライン派の概念は、遺伝された思考としてではなく、本能の不可欠の一部である生物学的コードとして理解することができる。

   乳児は、生まれながらに乳房をひきちぎるという知識や幻想をもっているのではない。ただ、特異的な系列にそって体験を組織し意味づけるような強力な敗因をもっているのである。

 そうしたあらかじめ決定されている系列が、クラインによって提唱された系列であるかどうかは、いまだにほとんど決着のついていない問題である。

  しかしながら、心理的深部構造として本能を概念化することは、精神分析的な本能理論に対する必要不可欠な追加であるように思える(Grotstein,1985;Ogden,1985)。

今日の日中と、【チョムスキーの深部構造の概念の基礎にある仮説は、人間はでたらめに体験を組織化することはない、ということである。】と、サリヴァンと中井久夫先生

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 今日は、地元で色々な催事があり、大部分の方が、丼街道に行かれました。

賑やかだったようですが、自分たちは、福祉の集いに出掛け、そのままマックに行きました。利用者さんも、支援者も知り合いが沢山いて、挨拶が絶えませんでした。

お昼は外食が多いので、皆さんの予算(一番少ないのは自分ですが......)に応じて(沢山の方や、少ない方がいますので)皆さんで決めると、マックかすき屋になってしまいますね。朝食と夕食は手作りなのでご安心を!

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 かおちゃんは、すき屋組!お買い物もされてきました!

シフトが少し乱れたので、みんなで協力して無事何事もなく一日が過ぎようとしています。皆様に感謝です!

 

 

 下記を読んでいて、またまた、中井久夫先生を思い出しました。

難しい記述ですね。前後がないので余計に難しく感じてしまいます。

 

心理的深部構造
 ~チョムスキーの深部構造の概念の基礎にある仮説は、人間はでたらめに体験を組織化することはない、ということである。

  絶対的に新鮮に知覚されるものは何もない。すなわち存在するシステムから、自由に知覚されるものは何もない。

  意味が絶対的に新たに生成されることはありえない。

  生得的構造という観点からの体験処理に関する、きわめてよく似た理解は、言語学の領域のヤコブソンとソシュール、人類学から領域のレヴィ・ストロース発達心理学の領域でピアジェが発展させてきた。~

 

  下記は、中井久夫先生からの引用ですが、サリヴァンを思い出しますね。

青字の所は、サリヴァンです。

 〜たとえ臨床的に興味あることが多くからたくさん語られたとしても、乳幼児の側から見れば、その行為は音声(vocal)であって言語(verbal)ではない。歌詞ではなく音楽が伴っているのである。〜

 

 ~私のいう「深部構造」とはチョムスキーの概念とはちょっと違っている。文法の深部構造だけが問題ではない。音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋から舌筋を経て舌下筋、咽頭筋、声帯に至る発声筋群の運動感覚(palatability とは palate 口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのに使っている)、音や文字の色感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。(中井久夫アリアドネからの糸』より)

トウガラシと、干しシイタケ?と、【フロイトは本能の目標を緊張の放出であるとした。】

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 大家さんの玄関に、トウガラシが干してありました!色と形が大好きです。

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 夕食の食材を買いに行ったお店に、干しシイタケってポップがありましたが、どこにあるんだろうか?って探したらこれでした。これって、椎茸の軸の所でしょうか?何か不思議な感じがしました。地元の方の特有な食材なのでしょうか?

 

 体調を崩される方も出て来ましたので、首の周りにマフラーや、スカーフや、タオルなどを巻いて、首全体を暖めると風邪をひきにくくなりますよ!勿論、手荒いも必須ですね!

 

 

 下記を読んでいて、たしか死の本能の概念を臨床に適用した最初の精神分析家がメラニー・クラインだったような気がしましたが、下記にあるように、フロイトが本能の目標を緊張の放出だとしたのなら、本能の目標とは本能の充足であり,本能源泉における刺激状態の解消によってしか到達されないので、本能の対象とは目標を達する所のもので,外的なものである必要はなく,自分自身の肉体の一部であってもよいというのも、あながち間違いではありませんね。

 やはり、臨床人類学を読ませて頂いている手前、対象と言うのは社会的リアリズム等の影響を受けてしまうので、特異な形式の対象関係に特徴づけられてしまうのでしょうね。

 

 

  アイザックスがここで提起していることは、対象をばらばらにひきちぎるという観念は学習されるのではなく、むしろ、本能の目標に本来内在している、ということである。

 クラインが、乳児が出会う前から乳房を知っているのは「系統発生的な遺伝」(1952a,p.117 fn)による、というのも、同じ見方である。

 クライン派は目標という概念をフロイト(1905,1915a)の最初の用法より拡大した。フロイトは本能の目標を緊張の放出であるとした。アイザックスの用法はフロイトのものとは矛盾しないが、それを越えている。

 彼女は、どのような場合でも本能の目標は、対象との実際の体験によらない、特異的な情緒観念的な性質を含んだ、特異的な形式の対象関係性に特徴づけれている、と述べている。

今日の散歩と、アサギマダラと、【新生児の世界の最初は身体的な世界であり、幻想は身体的なできごとを心的な形に変形する乳児の試みの現れである。】

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 今日は、金曜日の散歩になり、ラッキーでした!

午前中だけでこれだけ歩けましたが、二人とも物足りない感じでした。時間制限があるので残念です.....。

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 アサギマダラが、沢山来ていると、みなさんいいカメラを持って来られていました!

それで、いつもは平日には少ないお客さんが、沢山いたのですね!

 花が好きなので、個人的にはフジバカマの方に目が行ってしまいます。

 

 

 自分の支援方法の基礎が、クラインなので、皆さんに力強く紹介したい一節でもあります。一番下にあるように、大人になっていても、乳幼児と同じ様な体験ができるというのは、現場にいて、自分もそんな感じになる時があるので、分かるような気がします。幻想と言う言葉の意味理解は、難しいとは思いますが、理屈だけで人間は生きているわけではないので、その逆の極にあるのかも知れません。突き詰めていくと、DNAレベルの話になりそうですが......。

 現在読んでいる、臨床人類学(クライマン)の箇所が、民間セクター・専門職セクター・民族セクターの詳細なので、どうしてもそれに絡めて考えてしまいますが、案外間違っていないような気もします。

 

2.メラニー・クラインの業績における本能、幻想、そして心理的深部構造

 ~クラインを論じるなら、幻想という概念から始めるべきだろう。なぜなら、それが彼女の思い描く精神-身体系の中心だからである。クライン(1952a)における幻想は本能の心的表象である。

 本能それ自体は生物学的な実体であり、それゆえ、幻想はひとの生物学性の心的表象である。その「心的な帰結」(Isaccs,1952)、すなわち幻想を生成するには、本能はある種の変形を受けねばならない。

 この変形を担っている心的機能単位がイドである。人間の生物学性の一部としての本能は誕生のときから存在し、イドはその変形機能を最初から営んでいる。

 新生児の世界の最初は身体的な世界であり、幻想は身体的なできごとを心的な形に変形する乳児の試みの現れである。

 大人になってからでも、幻想は最終的にはつねに、他者のからだのはたらきと内容とに関連した自分自身のからだのはたらきと内容についての思考と感情へとたどることができる。

片付けと、美味しそうな魚と、【羨望の性質と、羨望を認識し、それをパーソナリティに統合していくのを妨げる防衛をよく理解することで、患者に現れる反復強迫に耐え、理解し、コンテインすることができるようになる。】

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 今日は、休みでしたが、すろーじゃむを塞ぐように置かれている粗大ごみを、片付けに行きました。小さなものは親分に頼み、大きなものを解体して2回資源化センターに一人で運びましたが、2回で約600kg分(秤で計られました)投げ入れてきました。

 身体を動かしている方が、個人的には良いかも?ですね!

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 お昼を買いに行ったお店は、魚が安かったです。関係ないですが(笑)、個人的に太刀魚が大好きなので、100円で処理してくれるとのことで悩みましたが、直ぐには帰宅できなさそうでしたので諦めました。

 

 

 ウィニコットは、どちらにでも解釈できるような、記述だとよく言われますが、ウィニコットが言っているように、誰も自分の言うとおりにしても自分と同じようにはできないって、最初読んだ時には、偉い自信がある人なんだな!と思いましたが、沢山の本を読ませて頂いたり、現場で真摯に向き合っているうちに、ウィニコットの言いたいことが理解できるようになってきました。支援者にも今まで生きてきた歴史や過去があるように、利用者さん達も同じなので、支援者×利用者さんだけの支援方法ができるので、いくらウィニコットの言うようにやったところで、支援者もウィニコットではないし、利用者さんも、ウィニコットの患者さんではないので、当たり前と言えば当たり前ですね。でも、世の中には、ステレオタイプの方が非常に多いので、レクチャーが無かったとか、マニュアルがないとか、強く批判される時が多いです。

 アスリートやミュージシャンは、試合やライブに臨む前に、真剣に自分を追い込むような、的を得た練習をしています。自分達もそれでお金を頂くのなら、現場に臨む前に、的を得た、自分を追い込むような勉強をしておかないと、現場に出ても何も結果を残せないのは当たり前なのではないでしょうか?

 それから現場で、しっかりと見ていないと下記の様なことにも、何も感じる事無く、ただ年月が過ぎ去って行くことでしょう。単なる、慣れで支援が出来ていると勘違いしている方が、あまりにも多くて、慣れも必要ですが、臨床心理学などの学習も必須です。その両方がないと、きちんとした支援は無理ですね。

  ~対象から離れることで、対象をよりはっきりと見ることができるようになり、その現実ーー羨望を向ける良い側面と、恐ろしい悪い側面の双方ーーに向き合うことになった。

 同時に分離することで、以前よりはっきりとかつ現実に、自分を見られるようになり、自分の良い面と悪い面も露にされるようになった。

 羨望は即座に分裂排除され否認されるので、彼はたえず自分の良い性質に対する破壊的な攻撃を予期し、また攻撃を惹き起こすことも多かったのである。
 羨望の性質と、羨望を認識し、それをパーソナリティに統合していくのを妨げる防衛をよく理解することで、患者に現れる反復強迫に耐え、理解し、コンテインすることができるようになる。

 これらを理解できると、反復強迫は、すべてこころの変化に対する抵抗と同一化されそうなものと認識することができ、分析を行う上での通常の困難の一部と見ることができるようになる。

 私たちの理解はクラインの詳細な記述、とくに羨望に光を当てたこと(1957)と、死の欲動を理解し、そしてその現れに対して決まって加えられる防衛への理解を深めたことに非常に多くを負っているのである。

ニューヨーク・アートシーン と、【また分析家自身が羨望を分裂排除し、投影しようとすると、患者はそれを分析家が上位に立とうとする態度として体験する。】

 帰宅して、メールチェックしていたら、ジャパンデザインネットさんの中に下記がありました。バスキアファンなので、是非見に行きたいですが、またまた会期が.......ですね......。椅子の美術館の動画は、音楽が素敵でした。

 

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ニューヨーク・アートシーン
-ロスコ、ウォーホルから草間彌生バスキアまで
滋賀県立近代美術館コレクションを中心に
2019.11.14[木] 2020.1.19[日] 

 

椅子の美術館

館内にはたくさんのグッド・デザインの椅子が置いてあります。自由に座ってみて、お気に入りの椅子を見つけてください。 展示中の椅子については、「今日座れる椅子」のページから。

 

 

 下記は、昨日の続きですが、現場でも気をつけないといけない事ですね。支援者によって、どうしても優位になろうとする方がいるので、利用者さんの方が諦めようとされることが良く見受けられます。精神的な死は、生物的な死に繋がることがあることも忘れてはいけないことです。生物学的に何も問題がなかった施設の入所者さんが、突然亡くなられるときは、おそらくそうなのかもしれません。鳥の雛のように、うるさい程、喚き、自分を出す人間ほど強く生きる事が出来るのかも知れませんが、存在が消えそうになっている方をきちんと見つけ出して、存在を与えて、精神的な死に至らないようにさせて頂くのも、自分たちの仕事です!

 

 ~また分析家自身が羨望を分裂排除し、投影しようとすると、患者はそれを分析家が上位に立とうとする態度として体験する。

 分析家は恥や屈辱を他者に押しつけ、自分は羨望をまぬがれ、それにまみれていない者として自分自身を見せようとしている、と感じるのである。

避難訓練と、男性の尿漏れをサポートするコンドームカテーテルと、【しかしさらに重要だと思われるのは、羨望される他者が患者自身である場合にも羨望が惹き起こされることが多いということである。】

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今日は、うたたね管理者が、立てた計画に基づき、大きな地震を想定した避難訓練を実施いたしました。休みの職員んさんも出て、大掛かりなものでした。

 思っていたより、避難場所までの時間がかからずに、みなさんびっくりしていましたが、夜間だと職員も少なく、暗いので、訓練通りには行かないでしょうね。色んな問題点も提起されたので、次回はそれを踏まえて実施すると、管理者が言っていました。今回の計画も、きちんとした計画書を作ってくれていましたが、色んな意見が出ると言うのも、良いことだと思われます。

 ただ、何もしない人間が、頑張って作った人間を非難だけするのは世の常ですが、そんな人間にはなりたくはないですね!今回はそれは無かったので良かったです!

 

 

 いきなりですが、頚椎損傷の方に下記を教えて頂き、勉強になりましたので、アップさせて頂きました。サンプルが欲しい方は、その方(浜松の方で、サイトの方ではありませんので、お気を付けくださいね!)に言えば頂けるとのことでした。うたたねっとで申し込んでくださいね。数に限りがありますので、ご了承ください!

 以前は、その方が加工されていた感じの物でしたが、サイトを見る限りでは、完全な製品ですね!

 

 

 下記は、少し難しいですが、現在読ませて頂いている、アーサー・クラインマンの臨床人類学には、社会的リアリティと象徴的リアリティのことに触れていて、自分の周囲の(社会や家族など)ものを、内在化する方法を記述されていて、下記にある、患者の内部に成長してくるものと言うのは、そのことを言っていると思えば、理解がしやすく感じました。自我というものは、イドと超自我との折り合いで出来るのだとすれば、誰かの言葉を借りれば、自分ではなく、社会や家族などに影響されてできた物なので、本当の意味では、自分ではないので、羨望する対象になるのも不思議ではありませんね。それなら、本当の自分は何処に.......。

 

考察
 ~羨望をひきおこすものが何かについて詳細に考察すると、さらに一致が見られると思われる。

 クライン(1957)は羨望は、乳房の良い側面によって惹き起こされると考えた。この側面をクラインは「母親の良さの原型であり、創造性とともに、尽きることのない忍耐と寛大さ」(p.180)であるとみなしている。

 しかしこの見解で、乳房、関係性の中で観察していることは明らかである、と私は考える。ビオン(1958)はこのことに気づき、もっとも羨望されるのは対象と対象の間のつながりである、という考えを提唱した。

 小さなこどもの、母親が新しく生まれた乳児と一緒にいるのを見るときの羨望には気づきやすいが、しかしさらに重要だと思われるのは、羨望される他者が患者自身である場合にも羨望が惹き起こされることが多いということである。

 この時には、患者の内部で成長してくるものが、羨望される他者を象徴していることがある。ビオンはこのようなつながりは分析家と患者の言語的つながりによっても刺激され、羨望を惹き起こすがあるという。

  また患者から分析家への投影同一視を通じたつながりによっても刺激され、この場合、分析家はこのつながりを受容し、理解することが難しい。