うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

石巻の柿と、オーストラリアのコアラのチョコレートと、【母親との実際の体験の役割は、重要ではあるが二次的なものである。】

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 昨日は、美味しい柿を頂き、今日はコアラのチョコレートを頂きました。

自分では自粛して、あまり食べないようにしていますが、色々頂いたり、親分と食事に行ったらご飯や麺が1.5倍になるので、中々痩せません(笑)。断ればいいのですが、根が好きなので(笑)、止まりません.......。

 

 親分が携帯を忘れたので、自分は今日は休みでしたが、現場まで届けて来たついでに、マックで本を読みました。約400頁あり、やっと180頁です......。途中で違う本が読みたくなりますが(笑)、なんとか読み続けています。やはり、その国や、その地域や、その家族の文化の影響と言うのは、支援方法を考える上では非常に重要な事だな!と痛感しました。自分は大阪人なので、やっぱり大阪で残りの人生を過ごしたいなとも思いました。郷土愛と言うのには勝てませんね。

 

 母親との実際の体験の役割は、重要であるが二次的なものである。と、下記にありますが、良い思いでよりも、悪い思い出の方が強烈に残っていて、フラッシュバックした時に、自分には堪える事が出来ないこともあります。心的外傷でしょうね?母親の自死に伴う周囲の反応に、恐怖を覚えましたので、その時の光景が、嫌なことがあった時に、甦ります。自死した母親は、教育には厳しかったですが、9歳の時に自死したので、勉強以外は、唱歌を優しく歌ってくれて、買い物に行ったら甘味処に入って、ぜんざいやみつまめを食べた思い出しかありません。

 死の本能と生の本能のバランスで生きているという仮定で、考えるとフラッシュバックした時は、死の本能が優位になっているというだけのことかもしれませんね。そんな時は、クラインの言葉を借りれば、妄想ー分裂ポジションにあるので、ただただ、抑うつポジションに入るまで何をして過ごそうか?ただひたすら本を読む、ギターを弾く、酒を浴びる、オーバードーズする等々選択肢があるとは思いますが、その時の精神の健康状態がまだ元気なら(そうならフラッシュバックしないか?でも、オフラインでの精神は元気かもしれませんので!)、何かに夢中になる事で凌げるのかも知れませんね。

 現在読ませて頂いている『臨床人類学』は、皆藤章先生が、分かり易くまとめて下さっているように、生きたケア(自分達には支援)をするには、現場を生きた物にしないといけないので、自分の情けない体験や経験が、言葉では誰にも伝える事はできませんが、生きていると思っています。叢のなかに潜んで静かに獲物を待つヘビのように、より良い支援ができるものを、きっかけを静かに待つことができています。それが、細い糸ならば、慎重に引っ張りあげ、太い縄なら、力強く引っ張り上げていきます。

 

 女性の臨床心理士精神分析家の方が、分かり易く記述してくれますね。男は全員ではありませんが。ラカン風な人が多いので、初学者には難解すぎますね......。

 

前概念preconceptioと現実化realization
 ~「自我の強さはーーふたつの本能の融合の状態を反映してーー私の信じるところでは、体質的に決定されている」(Klein,1958,pp.238~239)。
 言語の深部構造に類似したコードというパラダイムを用いて、クラインのアイデアを次のように言い換えられるかもしれない。

 生と死の本能の相対的体質的な資質は、乳児が体験を解釈するためにどのコードに頼るのかについての決定因子である、と。

  死の決定にそって解釈された体験は、攻撃的で危険な意味を帯びるのに対し、生の本能によって組織化された体験は、育むような、愛情に満ちた意味として理解される。
 母親との実際の体験の役割は、重要ではあるが二次的なものである。