うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

偽物のおっちゃんと、グループホームの夜勤帯が常勤換算に入らないのはおかしい!と、【現実の危険は、乳児のもつ、そのような危険が存在する、という予期を確証するにすぎないのである。】

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 今日の夜勤時、偽物のおっちゃんが突然現れ(笑)、皆さんにちょっかいを出していました(笑)。偽物なので気を付けてくださいね!

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 皆さんには、大うけしていました!

先日、あるホームの方の成年後見人である弁護士さんが来られて、日中の施設で見た姿と全違って、こちらでは明るいですね!と言っていたと、主任さんから今日聞きました。

 うたたねは、まずは、安心・安全感を得て頂くことに徹しています。それがないと、その方の居場所も作れないし、本来の能力や、。サリヴァンが言うところの、この人に障がいがなければ、どんな人格だったのか?ということも、お互いに安心・安全感が無ければ、出せないし、出ないと思われるからです。

 会議など、なぜ日中の施設が中心になるのか?ふしぎで仕方がありません。障害の有無関係なく、基本は生活だと思われるので、生活の場が中心であるべきだと思います。

 日中で食事が食べられなかったって言うけれど、その手当や処置をするのは生活の場である入所施設やグループホームです。日中はその場をやりすごせればOK的な所があるので、自分は生活系を勉強したくて、日中は3年で卒業しました。日々の状態、特に健康状態は、いわゆる三大介助の中にこそ現れるものですし、睡眠の状態も重要なことです。なのに、なぜ日中の施設が偉そうに中心になるのか?不思議で仕方がありません。自分が日中の施設にいた時も、親御さんたちに、生活の状況も知らないのに、よくもまあ、偉そうに指導できるんだな?と、ずっと不思議に思っていました。

 生活を見させていただきというのは、命を見させて頂いていると言うことなので、本当に気配りが必要です。風邪やインフルエンザになれば、日中は来るなと言いますが、生活の場の方ではきちんと見ていますし、親御さんがおられなかったり、帰宅出来ない方には、病院にも一緒に行かせて頂くし、避難場所の確保もしています。生活系は逃げることは出来ないし、逃げません!

 それに、グループホームの夜勤帯が、常勤換算に入らないのはおかしい!

そしたら、常勤換算を埋めるために、無駄に夜勤帯以外につけろと言うことか?良い人材がこのご時世に、そんなに沢山集まるわけでもないのに、ましてや夜勤をしかも、重度の方々の夜勤をやろうと思う人が何人いるだろうか?大きく、広くされている施設は、結局、アルバイトや引きこもりの方を夜勤に雇用していたりしていて、何かあれば、責任を持った行動が出来るのでしょうか?専門性というのは、本当に大事だと思いますし、そんな簡単には身にはつきません。決して、アルバイトや引きこもりの方を軽視しているわけではありませんが、きちんと教育された方でないと、自分が親なら預けられませんね........。加算があるからって(笑)、そら夜勤は大変なんで、加算つけてもらわな、夜勤手当もでえへんわって思いますがね!と毎日文句が言いたくなる見解ですね!

 

 

 下記は、オグデンで、相変わらずどっちがほんまに言いたいことやねん?と。突っ込みを入れたくなるくらい(笑)難解ですが、今ここで起きていること全てを、乳幼児期に起きたであろうと言う、見方に対して、戒めているのかな?と思って読めば、個人的には納得がいきました。

 最後の『死の本能に結びついたコードにしたがった意味の系列にそって体験を解釈することは、よい体験があっても続くのである。』は、やはり、良い思い出や体験よりも、悪い思い出や体験の方が、心に残りやすいし、反応しやすいと言うことでしょうか?

 

  ~実際の体験は体験組織化の本能的な様式を支えるかもしれない。が、体験が解釈のために創造することはない。

 たとえば、持続的な母性の剥奪は、死の本能にそってなされる解釈の情緒的な強度を強めるだろう。実際の場合は、乳児が対象を危険なものとして体験する準備性を確かなものにするだろう。

 しかし、危険という意味は、剥奪そのものによって創り出されるものではない。現実の危険は、乳児のもつ、そのような危険が存在する、という予期を確証するにすぎないのである。

 それに加えてこのような危険への予期は、現実の危険がないからといって、まったく確証されないというものでもない。

 死の本能に結びついたコードにしたがった意味の系列にそって体験を解釈することは、よい体験があっても続くのである。