いつものうたたねにと、ブレイディみかこが読み解く「銃後の女性」~エンパシーの搾取と、【マルクス、フロイト、ソシュール等のテクストは、ときに、批判を超越した権威と見なされている。】
雨が止んだら急に真夏日!身体がついていきませんが、災害がこちらでもいつ何時起きるのか?全く分からない状況なので、レーダーとみらめっこする日々がまだまだ続きます。
お盆休みもショートさんたちが賑やかにしてくれましたし、今日からぼつぼつとホームの方も戻ってこられ、ますます賑やかになりました!
コロナ禍、まだまだこちらも油断できませんが、出来る限りのことはやっておきたいと思って皆さん日々を過ごされています。
エンパシーの搾取.......。
ブレイディさんが提案するのは、「エンパシー」を使って、戦時下の女性たちの“心”を想像してみること。
「エンパシー」とは、同意や賛成はできなくても、なぜそういう意見を持っているのだろうと、その人の立場に立って想像してみるスキルのことで、英語では「他者の靴を履く」という表現でも説明されています。
歴史を学ぶ際に、その時代に生きた人たちの靴を履くことによって、“自分たちとは違う存在”として、切り離して考えてしまいがちな相手だとしても、一人ひとりが違う人間として見えてくるようになると、ブレイディさんは考えています。
女性たちは、なぜ戦争を後押しするような活動にのめり込んでしまったのか。
その理由は、「女性たちの社会進出の場だったから」だとブレイディさんは指摘します。
ブレイディみかこさん
「国防婦人会の活動は、彼女たちに許された唯一の社会進出でした。それまで、台所の中で“小さなストーリー”を紡いできた女性たちは、活動を通じて初めて自分の行動が、国家の運命つまり“大きなストーリー”を動かしているという感覚を持てたのではないでしょうか。例えば、息子を戦争に出した母親が、戦地の兵隊たちに物資を送るボランティア活動に熱中したり、若い女性たちがお姑さんと過ごす息苦しい家の中から抜けだし生き生きと国防婦人会の運動に参加したりと、それぞれに生きがいを見つけていった。その裏側には一人ひとりの人生があって、心があって、そして活動にのめり込んでしまったんだと思うんです」
下記も貼り付けておきました。
今回の本にもう1つ書いているのが、コロナ禍に女性の指導者が対応に成功したと言われていたことです。やっぱり女性のほうがエンパシーに長けているから成功したとのでは、と言われがちですが、これについては異論もあり、ニューヨーク大学の社会学教授キャスリーン・ガーソンは、男性の政治家たちは、女性と比較すると「指導者たるものこうあるべき」という鋳型にはまりがちで、たとえエンパシーに長けた人であっても、それを公に見せまいとすると主張しています。指導者は、感情的になって思いやりや優しさを見せるより、いかなる状況でも動じない強さやパワーを見せなければと思い込んでいるというのです。だから、コロナ禍でも女性みたいに、エンパシーのあるところを見せられない。女性指導者たちのように、強く、決断力もあるけど、思いやりに満ちた一面もあるという、多面的な指導者像を打ち出せなくなるんです。そうだとすれば、これもジェンダーロールに囚われて自分の能力を発揮できない一例ですよね。
本当は、パースペクティブ・テイキングもできるし、エンパシーという力を持っているのに、ジェンダーロールから逸脱したら男として不利になると思い込んで自分のポテンシャルを狭めている。逆に、そういうことは女性の側でもあると思うんですよね。
そういうことからもっと自由になると自分も周囲も楽になると思います。他者の視点をたくさん獲得して、いろんな考え方があることがわかれば、たとえば子どもだって、自分の親が言っていることとか、先生が言っていることがすべてじゃない。もっといろんな考え方、いろんな見方をしている人たちがいるんだってわかって、息苦しさがなくなる。
その集大成が、今とは違う社会があると想像して、新たな社会を創り出していく力につながっていくと思うので、その第一歩として、他者の視点を獲得するっていうのはすごく大切な、エンパシーの第一歩だと思います。
下記はこの本の中で、個人的に一番唸ってしまったところでした。確かにそうかもしれませんね......。
〜たとえば、マルクス以降の経済学や社会科学、フロイト以降の心理学や精神医学、あるいはソシュール以降の言語学や言語思想を思い起こしてみればよい。マルクス、フロイト、ソシュール等のテクストは、ときに、批判を超越した権威と見なされている。
マルクスの『資本論』や『経済学・哲学草稿』を読むことを通じて、資本主義や人間の社会的なあり方についての真実が探究されてきた。フロイトの『夢解釈』や『モーセという男と一神教』の解説を媒介にして、人間の心理の真相が考察されてきた。
あるいは、ソシュールの『一般言語学講義』の解釈は、そのまま言語や人間精神のあり方を探究するものであると見なされてきた。
こうした研究において、マルクスやフロイトやソシュールのテクストに対する態度はまことに権威主義的であり、それらは真理の基準そのものを与えているかのように扱われている。〜
バンドクラブの準備と、ユダヤ人とパレスチナ人が互いの民族を“ラップ”で罵り合う─話題の動画に込められた「思い」とはと、【人間には、考える欲望やどこまでも知ろうとする好奇心が生来備わっているかのように言われることがあるが、それは誤りである。】
今日は夜勤明けでしたが、バンドクラブの撮影の準備をしていました。自分はめんどくさいので(笑)、アンプ直結が多いですが、コンプだけ入れました。こんな感じで行こうと思います。
現場はお盆で帰省されておられる方が多いのに、ショートさんで賑やかでした。事情があって帰省できない方もおられるので、賑やかで良かったです。
下記は寝ぼけながら見ていたニュースにあったものです。本音で言い合えないと、何も解決できませんね。
見せかけの礼儀正しさはいらない
ウリヤ・ローゼンマンはイスラエル軍の基地で育ち、精鋭部隊の士官として働いていた。父親は戦闘機のパイロットで、祖父は1967年にイスラエルが嘆きの壁をヨルダンから獲得した際、落下傘部隊を率いていた。
サメフ・ザクートはイスラエルのパレスチナ人で、ユダヤ人とアラブ人が共存する都市ラムラで育った。家族は1948年、イスラエルが独立を果たした第一次中東戦争で故郷を追われている。この戦争はパレスチナ人には「ナクバ」と呼ばれており、大災厄を意味する。ザクートの親戚の多くはガザ地区に逃れた。
彼ら2人は、イスラエルでバズったラップの動画に出演している。自動車の修理工場で、小さなプラスチックのテーブルを挟んで向かい合い、互いの民族に対する侮辱や偏見をぶつけるのだ。
ユダヤ人国家、そしてその地に住むマイノリティであるパレスチナ人との間で、渦巻く敵意を覆い隠していた見せかけの礼儀正しさは、この動画ではかなぐり捨てられている。
この本は、下記の補論が自分には一番はまりました。人間は、必ずしも、徹底した探求を好まないは、自分のことを考えるだけで十分理解できます。レベルの低い話ですが(笑)。それをどうやったら探求できるようになるのか?本筋をついている気がしました。
補論 思想の不法侵入者
人間は、必ずしも、徹底した探究を好まない。人間には、考える欲望やどこまでも知ろうとする好奇心が生来備わっているかのように言われることがあるが、それは誤りである。
私が見るところ、人間は一定の水準を超えて考え、知ろうとはしない。むしろ、人間はときに、思考を積極的に拒否しさえする好奇心思考・思想への渇望は、人間の本来的な欲望の中には含まれていないのだ。
この事実は、ジャック・ラカンやジル・ドゥルーズがすでに指摘してきたことである。ドゥルーズは、人間をあえて考えさせるには、外部からのショックが必要だと述べる、そのショックを「不法侵入」に喩えている。〜
今週のうたたねと、わざとワクチンを「廃棄」に? 各地で起こっている「不穏な動き」の背景にあるものと、【人間が驚いたり悲しんだり、喜んだり失望したりするその感情は、そのときに理由がわからなくても、実は非常に論理的である。】
アップを最近し忘れてしまい、写真が少し古くなってしまっています.....。
帰省に向けて、皆さんヘアーカットしていますが、今日は利恵さんがする日でした。もうすでに似たようなカットになっていますが、もうすこしカットしてすいてもらうと、女性職員の意見でした。すっきり可愛くなってきました!
下記は興味深い記事でしたし、精神分析的に見ても面白かったです。でも本当にそうだとしたら厄介ですね.......。
~ここで非常に参考になるのが、小説家チャック・パラニュークの人気作で映画化された『ファイト・クラブ〔新版〕』(池田真紀子訳、ハヤカワ文庫NV)で展開される“騒乱プロジェクト”です。現状に苛立ちや不満を持つ者たちが、社会を混乱に陥れる行為を通じて結合し、「自己確証」を得るというサイクルによって、実存的な動機付けが与えられるのです。 騒乱プロジェクトの中心人物であるタイラー・ダーデンは、最終目標を「文明を徹底的に、かつ即座に破壊すること」(前掲書)と述べていますが、ワクチンという科学文明の粋を拒絶するという振る舞いにおいて、作中における膨大な悪ふざけと「プラグを抜く」行為の奨励が不思議な一致をみせているのは、反文明的で自然回帰を憧憬(しょうけい)する価値観が核心にあるためでしょう。~
個人による行動だからこそ厄介
~かつてイスラーム過激派であるアルカイダとその関連のテロについて、警察官僚の松本光弘は、ネットなどの情報に感化された共鳴者などによる一匹狼型のテロを「勝手にアルカイダ」と名付けましたが、このあまりに秀逸な表現が示している通り、一見組織的な行動に見えるものの、実質的に中心が存在しないネットワーク、勝手連的な運動ほど監視や予防が困難なものはありません(『グローバル・ジハード』講談社)。 しかも、コロナワクチンを標的とした地下活動がもしあるとすれば、爆弾や武器を用いる必要はなく、誰かに暴力を振るったり、誘拐したりするような他者への物理的な強制力を伴わない、至極シンプルで、ハードルの低いものです。プラグを緩めたり、引っこ抜くだけで済んでしまうからです。~
感情を理論的にできる人間がどれだけいるのか?と言う問題でもありますね。感情を勘定のままにしておく方が大半のような気もしますが、下記のように考えることが出来れば良いですね。
4いかに思考するか
感情は論理的である
このこととの関係で一言、付け加えておこう。「感情は論理的じゃなくて…………」と言う人がいる。けれども、それは違う。人間が驚いたり悲しんだり、喜んだり失望したりするその感情は、そのときに理由がわからなくても、実は非常に論理的である。
なぜ自分はそれに衝撃を受けているのか、そこには気がついてみると非常にはっきりした論理がある。感情の方が、中途半端に意識化されている理屈よりも、はるかに論理的である。
普通に言葉になるようなことは、しばしば、衝撃をごまかすために作られた理屈だったりするので、ほんとうの意味での論理性はない。むしろ、自分が最初に抱いた感情を大事にする必要がある。その感情に見合った論理になっているかどうかが重要である。
感情に論理がじゅうぶん拮抗できているかどうか。そういうふうに吟味しつつ、思考を進めなければならない。
アトリエ・カーグとバンドクラブと、東京五輪失敗の根本原因はコロナではない 経済思想家・斎藤幸平と、今日のうたたねと、【アイディアは、最終的には言葉にすることで、ほんとうに捉えたことになる。】
昨日は、アトリエ・カーグとバンドクラブの日でした!
お題は東京オリンピックのようでしたが、.......。ピクトグラムに集中すれば良かったですね。
今月中に、バンドクラブの録画が、プロの方に撮ってもらって、アールブリュット展で流されるとのことですが、1年半のブランクは大きいですね........。少しだけ機材を持っていきマスクしながら少人数で窓全開、扇風機強、エアコン全開、ソーシャルディスタンスで、マイクを使いました。皆さん本番には強いので、大丈夫でしょうか?
皆さんミラーボールが好きですね。
午後からは、女子も男子もすろーの湯に行きました!萎れていたブドウは先週の水やりと雨で復活していました。昨日もブドウとイチゴにはたっぷり水を上げてきました。
暑いので水分補給はマメにしていますが、昨日はアイスクリームも出ました!
毎日毎日空を見上げるとキレイので、またまた写してしまいした(笑)。
ダムや原発建設、勿論オリンピックのもその時だけの特需になってしまうので、その後の地元は閑散として、旅館や飲食店などは悲惨な目に合いますが、その時にだけ儲けて祭りが終わったら逃げて、また新しい場所の祭りに参加して儲けるのは世の常ですね......。お金の生み方をしっておられる方々に、是非しっかり儲けて頂いて、必ず儲かる仕組みで儲けたら余分に税金をしっかり払っていただきましょう!下記とはまた違う視点ですが........。
Uber Eatsの配達員さん等を新しい働き方と言ってしまうのは無理があるような気がします。誰も不確実な仕事をしたいわけではなく、そうでもしないと仕事にありつけないから(まあ、一時しのぎに必要な仕事でもあるのは承知しています)、されておられる方が多いのではないでしょうか?ご自身の状況でパートタイム的な仕事しか出来ない方はそんな働き方もありでしょうが、きちんと自分が生活を組み立てなければいけない方々にとっては、心が休むような職業ではありませんね。きれいごとではなくて、生活が安定しなければ心も安定しないので、変な事件が増えても何ら不思議ではありません。
拙著『人新世の「資本論」』において私は、無限の利潤獲得を目指す資本主義が地球環境も社会も、すべてを破壊すると述べた。今回の五輪の失敗も、その問題と同列である。資本主義のもとで進む五輪の商業化とその害悪が、コロナをきっかけとして、きわめてわかりやすい形で可視化されたと考えるべきなのだ。コロナは主犯ではないのだ。どういうことか、順を追って説明していこう。 巨額の血税を注いで開催される五輪のようなメガイベントの本質を、米国の政治学者ジュールズ・ボイコフ氏は「祝賀資本主義」と呼び、批判している。人々がお祭り騒ぎで浮かれているスキを狙って、政府や開催都市の大型支出によって潤う企業が利権をむさぼり、その大きなツケを国民に背負わせるのが、「祝賀資本主義」である。 東京五輪では、開幕直後にメダルラッシュのお祭り騒ぎがあったものの、感染爆発というツケがすぐに露見し、自宅療養で人々は見殺しにされようとしている。さらに、4兆円ともいわれる五輪の総費用やコロナ禍の長期化による経済の冷え込みが、これから国民を襲うことになる。喜んだのは、(国際オリンピック委員会会長の)バッハ氏や(パソナグループ会長の)竹中平蔵氏をはじめとする一部の特権層だけ。これが「祝賀資本主義」の残酷さである。
全てには時がある。聖書の言葉でしたでしょうか?今まで生きてきて、本当にそう思います。いくらあくせくしても、その時が来ないと何も進みませんが、日々の努力で早めることは出来ます。と、下記を読ませて頂いて、ふと思い出しました。
〜アイディアは、最終的には言葉にすることで、ほんとうに捉えたことになる。その中空にある「もの」を早く言葉にしたい。早く言葉にしないと、それは、消えてなくなりそうなので。
しかし、あまりにも早く、あわてて言葉にし過ぎてはいけない。そうした乱暴な扱いは危険である。そのあいまいな、まるで壊れやすいシャボン玉のような、生まれかけたアイディアがそうした乱暴な扱いをすると、パチンと壊れてしまう。
こういうときには、「言葉」として我が手にあるものと、あのぼんやりと浮いていた原初のアイディアとは「違う」という感覚が否み難く残る。
急ぐと、捉えるべきものとは別のものを捉えてしまった、そんな印象をもつことになる。何か捉え損なった、そこに大きな魚がいるのだけれども捕まえて見たら違う方の小さな魚になってしまった、あるいは、全部を捉えられないで一部だけになってしまった、そういう気分になるのだ。
きれいな空と、いつものうたたにと、エリック・クラプトン1stソロ・アルバム50周年記念盤から「I've Told You For The Last Time (Olympic Studios Ver)」他公開と、【私の場合には、発見しかかったアイデアは身体から少し離れた場所、もう少し特定して言えば、額のわずかばかり先の上方で宙に浮いている。そんな気分がする。】
毎日空がキレイので、思わず写してしまいます。同じような写真ばかり(笑)!
親指の腫れが引いて、やっとギターが弾けるようになりました。皆さんも元気が戻って来ました!
下記は、新鮮な感じで聞けました。自分がクラプトンを知った時には、既にソロ活動していましたが.......。
エリック・クラプトン(Eric Clapton)が1970年にリリースしたファースト・ソロ・アルバム『エリック・クラプトン・ソロ(原題:Eric Clapton)』 。発売50周年を記念したアニヴァーサリー・デラックス・エディションから「I've Told You For The Last Time (Olympic Studios Version)」と「Bottle Of Red Wine (Eric Clapton Mix)」が公開
アイディアは外にあるというのは、分かるような気がしました。
関係ないかも知れませんが、アレクサンダー・テクニークでは、常に斜め上に意識を持って動きますね。意識と無意識の間での話ですが!
3どこで思考するか
アイデアは身体の外に
ものを考えるということは、生理的にみれば脳のどこどこの部分が活性化している、等と言われるだろう。しかし、思考している私自身の主観的な感覚では、思考は頭の中でぐるぐる巡っていますというのとはちょっと違う。アイデアも、頭の中で生まれるという感覚ではない。
私の場合には、発見しかかったアイデアは身体から少し離れた場所、もう少し特定して言えば、額のわずかばかり先の上方で宙に浮いている。そんな気分がする。
しかも、そのアイデアの位置や存在の仕方は、非常にデリケートだ。「そこ」に、つまり額の少し先に、アイデアがあることはわかる。しかし、それが「何」であるかは、まだ、しかとはわからない。
何かが、私の不可視の網に引っかかっている感じはしている。それを正確に、乱暴にではなく捉えることが非常に重要だ。〜
今日のうたたねと、精神分析家関係の本と、“卒業まではいたかったな…” 給付型奨学金制度にすくわれずと、【しかしその反復されている二度目の出来事の渦中でそれを感じているわけだから、そのときには同時代的に共振しながら考えているという面もあるのだ。】
女子は元気に!男子はオリンピックを観戦したり、ドリルをやったり!おっちゃんの指がギターを弾きすぎて炎症を起こしたので(笑)、比較的静かな夜でした。盛り上げすぎもいけませんね(笑)。
コロナ終息がますます遠くなりつつある昨今。屋内でも楽しめることを日々考えて、職員さんたちの一日が終わります。お疲れ様です!
精神分析の本の一部ですが、本当にこのあたりをしっかり学ばないと、きちんとした支援が出来ません。今日もそんな一日でした。まだまだ勉強不足だな......と感じた一日でもありました.......。
遅番での帰宅時、20時を回っていましたがこの気温.......。週末は雨で少し楽になるとのことですが、暑いですね........。
個人的には下記のような方々を、沢山の支援はできませんが、当施設で学業に無理なく、安心して住める住宅を当法人が確保して、当法人の施設で働き収入を得ながら卒業出来るようなシステムを作りたいと考えています。自分もこの歳になってやっと高等教育を受けることが出来るようになりました。学ぶ大事さも理解できました。
自分達は時代にも、利用者さん達にも共振していますね。
前にもあった、という感じ
〜だから、出来事にしても読書体験にしても、反復において思考の対象になるケースが非常に多い。
反復されているということはすでにあったということだから、思考の自覚はかなり後れをとったと言えなくもないけれども、しかしその反復されている二度目の出来事の渦中でそれを感じているわけだから、そのときには同時代的に共振しながら考えているという面もあるのだ。
きれいな空と、今日のうたたねと、新たなゴールドラッシュ? 炭素クレジットに熱視線と、【マルクスがヘーゲルに託して述べているように、本質的な出来事は反復する。反復されたときにはじめて思考のテーマとして明確に意識化されるようになる。】
今日も空がきれいでした!そしてうたたね女子も元気でした!親分が何を考えたのか?ミラーボールを持ってきて、リビングがディスコになっていました!
下記は秋学期に使えそうな記事です!しっかり何度も読み返しました!
でも、何でもゼロにすれば良いと言うことではないので(バランスが大事なので)、大気が酸素濃度だけ異常に上がらないようにして頂きたいですね。世界中で山火事が絶えないのに........。
アメリカのある農家が、みずからの広大な畑を利用して1900万円を手にできることになりました。農作物の販売で?
いえ、違います。二酸化炭素の削減に取り組み、その「削減量」を売ったのです。こうした「削減量」の売買の仕組み。「炭素クレジット」と呼ばれ、いま、民間どうしの取り引きが活発化しています。かつてアメリカでは、金の採掘に人々が殺到する“ゴールドラッシュ”が起きましたが、炭素クレジットをめぐる状況は、新たな“ゴールドラッシュ”とさえ呼ばれています。(国際部記者 梶原佐里)
反復は何をするにも必須ですね。反復なくして何を成せるのか?
本質的な出来事は反復する
〜マルクスがヘーゲルに託して述べているように、本質的な出来事は反復する。反復されたときにはじめて思考のテーマとして明確に意識化されるようになる。
ただ、その時重要なのは、「それ」が反復だと気づくことである。その出来事自体がヘーゲル「自分はあれこれの反復です」と声を大にして言っているわけではないので、これは過去のあれの反復である、ということに自分で気づかなくてはならない。
そして、気づいたときには、実は、無意識のうちにすでに思考は開始されていたのである。反復されたとき、そのことに思考自身が気づくのである。逆に言えば、〈反復〉を感じられる出来事には本質的なものが孕まれていると考えた方がよい。
きれいな空と、音楽のちからと、気候危機、格差が迫る転換 「コモン再生」で脱成長を 斎藤幸平・大阪市立大准教授インタビューと、【 だから、社会学の探究者は、何か「こと」が起きれば「同時代に生きる者として社会学的に何を言えるか」という問を突きつけられている。つまり、社会学には、同時代と共振するということが学問的な使命として内蔵されているのである。】
毎日空がきれいですね!
昨日も皆さん笑顔で一日が終えることが出来、感謝です!音楽のちから!
下記は、少し古い記事ですが、何度もアップさせて頂いている斎藤浩平氏のものですが、便利さが豊かさと勘違いしている向きは否めませんね。絵を耳で見ると言うのも考えてみたら同じかもしれません。自分達の支援も大きい施設に利用されて(笑)、大変な方を落ち着かせたら、大きな施設が持っていく(笑)と言う形が生まれつつありますが、うちの使命としては望むところです。でも、同じ法人ばかりに持っていかれるのは、どうかと思うこの頃です(笑)。自分で支援者を育てて、支援方法も考えたら良いのに、しんどいところだけさせて(笑)、ショックドクトリン的な話をして、連れて行くのは如何なものか(笑)。自分の実力で支援者も利用者さんも集めたら良いのにと、ふと思ってしまうこの頃です。
冷戦終結後、私たちは資本主義以外の社会を思い描くことができなくなっています。24時間コンビニや吉野家が開いていて、ユニクロ、アマゾンがあるのが当たり前になっている。その便利さが豊かさだと思い込まされている。ファストフードやファストファッションは根本的に見直さないといけませんが、それなしには生きていけないような生活、働き方が本来おかしいはずです。
最近、自分が本当に探求したいのは、社会学なのではないのか?と思います。
『考えるということ』知的創造の方法
大澤真幸著
序章
同時代と共振する
〜社会学は近代に生まれた学問、比較的若い学問である。それは、〈現在〉というものを何か、自分たちが経験していることは何かということを、何とか言葉にしたいという強い衝動が学問として結晶したものだ。
だから、今起きていること、自分自身を含む人々が関心をもっている問題や出来事に対して何かが言えないのであれば学問としての存在理由がなくなってしまうようなところが、社会学にはあるのだ。
それゆえ、「社会学の」勉強として、教科書に書いてあることを読んだり、ずっと、昔の学説を覚えたりするだけでは、ぜんぜん足りないし、意味がない。それでは、何のために「社会学する」のかがわからなくなってしまう。
だから、社会学の探究者は、何か「こと」が起きれば「同時代に生きる者として社会学的に何を言えるか」という問を突きつけられている。つまり、社会学には、同時代と共振するということが学問的な使命として内蔵されているのである。〜
昨日のうたたねと、「人生を失った」~悲痛のワイン産地 始まる模索と、【 サービスーモデルの妥当性をめぐるもう一つの大きな問題は、サービス提供者が依頼人を技術的問題とは無関係の因子、たとえば社会階層上の地位とか支払能力のようなものに基づいて選択しようとしている、ということだ。】
またまたアップしそこなっていました。毎日暑いですが、空は非常にきれいですね!
暑いので水分補給はまめにさせて頂いています!
下記はワイナリーで短期間ですが、集中して学習しながら働いていたことを思い出しました。どんどん技術が進んでいきますし、農業は自然災害などの前では非力だなとも改めて思いました。
毎年のように起きる山火事。
その背景の1つとして指摘されているのは、地球温暖化です。
被災したワイナリーが多額の費用をかけて再建できたとしても、またいつ山火事が起きるかわからないという不安が消えることはありません。
ワイナリーとして、温暖化対策でできることはないのか。
今、現地で注目されているのが、「カーボンファーミング」と呼ばれる、温室効果ガスを少しでも出さないようにする農法です。
畑をたい肥で覆い、土壌に含まれる炭素が放出されにくくしたり、ぶどうの木の間にあえて別の植物を植え、二酸化炭素の吸収や、土壌の質の改善を図ったりします。
ナパバレーでカーボンファーミングの指導を行い、土壌の環境調査に詳しいミゲール・ガルシアさんによると、この2年ほどで70のワイナリーが取り入れているといいます。
今日は同業者の色んな話を人づてに聞き、驚いたり、悲しんだりしたので下記の最後の方は切ない思いで読みました。人間は勿論物ではありませんが、世代交代やサービス提供者が変わることでその方には全く意味のないことになってしまうんだなと、悲痛な思いでその話を聞いていました。
〜さらに近代社会にはサービスーコンプレックスを弱める傾向がいくつか存在する。多くのサービス事業体は、修理業務に無駄な空間と人員を用意しておくよりは、もっぱら新しい商品を売った方がずっと利益になることを知っている。
修理をする人びとも次第に内部の部品一式全体を新しくするーー技術を駆使して修理するのではなく主要部品を交換するーー傾向にある。
また〈自動販売〉機械あるいはカフェテリア型に向かう傾向があることも周知の通りで、これはサービス提供者の役割を相当に縮小する、あるいは場合によっては全く消滅させてしまうであろう。
サービスーモデルの妥当性をめぐるもう一つの大きな問題は、サービス提供者が依頼人を技術的問題とは無関係の因子、たとえば社会階層上の地位とか支払能力のようなものに基づいて選択しようとしている、ということだ。
依頼人も同じ行動を取る。したがってこのサービス提供者は様々の❲技術とは❳無関係の変数に基づいて、依頼人の扱いに格差をつけることになりやすい。しかしおそらく理念型からの逸脱は、おそらくサービス提供者と接触しようとする際に生じやすく、一度彼に接触してしまってからの扱いにはあまり生じないと思われる。〜
スティーブ・ジョブズ in 京都と、ドラッガー学会と、【コフートの治療関係で重要なのはどれだけ患者の自己愛に共感し、いつどこで患者が美化したり正当化しているものに幻滅を与え、彼をイリュージョンから目覚めさせるかということです。】
たくちゃんだけ、オリンピックを楽しんでいると、写メが来ましたが、たくちゃんは野球が大好き!
今から非営利組織経営論が始まりますが、その講義に使っているのは、ドラッガーの『非営利組織の経営』です。ドラッガーは日本文化に精通していましたねと、思い出しながらニュースを見ていたら、下記がありました。先日も似たような記事がありましたね。欧米には欧米の良さが、アジアにはアジアの良さがあります。
ドラッガー学会と言うのがあったのですね!時々覗かせて頂きます!
毎朝のルーチンをと思い、外に出てファミマでコーヒーを買って車に戻ったら、今読んでいる本がないことに気付きました(笑)。ずっと車に乗ったままの本が何冊かあるので。小此木啓吾先生のを手にしたら、自分が現場で大事にしていることが、簡単に書かれていました(笑)。勉強不足がまたまた露呈(笑)。
自己愛人間 小此木啓吾著
プロローグ 自己愛は誰にでもある
幻滅体験に出会う自己分析の試み
〜かつて米国ので精神分析医K・メニンガーは『人間の心』という啓蒙的な精神衛生書の前書きでこう述べています。
「もしこの本を読んで自分もノイローゼではないかと、少しおかしいのではないかと思うひとは正常である。この本に書いてあることは何も自分に思い当たることはない、これはおかしい人たちが花だと思う人はすぐに精神科医のところにきてください」
私は本書が描き出している自己愛の心理と自己愛人間の生き方についてもまったく同様の助言をしたいと思います。実は本書をつくっていく途中で私自身何となく元気がなくなりました。周囲からも最近やつれたとか疲れているようだといわれます。私も、そして周囲まかなり典型的な自己愛人間だと私のことを考えています。それだけに自分の活動のエネルギー源になっている自己愛の実体が本に書いているうちにいままで以上に明確にみえてきたからです。
そのたびに私は私のエネルギー源になっていたイリュージョンから醒めてしまいます。醒めると、もうその自己愛はエネルギー源にならなくなってしまうのです。憂うつなったり無気力になったりしてしまいます。それまで自分に都合のいいように正当化したり美化したりしていたさまざまな営みが、すべてまことに自己愛で自己中心的なものだったという受け取り方が広がっていきます。
そしてほかの人たちとのかかわりとか学問的・社会的な意義づけとかがすべて何かしらけた空しいものに感じられます。
そこでふと気がついたことは、自己愛パーソナリティの研究家であるコフートの治療論です。コフートの治療関係で重要なのはどれだけ患者の自己愛に共感し、いつどこで患者が美化したり正当化しているものに幻滅を与え、彼をイリュージョンから目覚めさせるかということです。
この幻滅の苦痛を一つひとつ経験することを通して、もっとリアルな現実とのかかわりが育っていく。私自身もこの本を書くこと自体が、そうした自己幻滅体験に出会う自己分析の営みだったようです。〜