いつものうたたねにと、ブレイディみかこが読み解く「銃後の女性」~エンパシーの搾取と、【マルクス、フロイト、ソシュール等のテクストは、ときに、批判を超越した権威と見なされている。】
雨が止んだら急に真夏日!身体がついていきませんが、災害がこちらでもいつ何時起きるのか?全く分からない状況なので、レーダーとみらめっこする日々がまだまだ続きます。
お盆休みもショートさんたちが賑やかにしてくれましたし、今日からぼつぼつとホームの方も戻ってこられ、ますます賑やかになりました!
コロナ禍、まだまだこちらも油断できませんが、出来る限りのことはやっておきたいと思って皆さん日々を過ごされています。
エンパシーの搾取.......。
ブレイディさんが提案するのは、「エンパシー」を使って、戦時下の女性たちの“心”を想像してみること。
「エンパシー」とは、同意や賛成はできなくても、なぜそういう意見を持っているのだろうと、その人の立場に立って想像してみるスキルのことで、英語では「他者の靴を履く」という表現でも説明されています。
歴史を学ぶ際に、その時代に生きた人たちの靴を履くことによって、“自分たちとは違う存在”として、切り離して考えてしまいがちな相手だとしても、一人ひとりが違う人間として見えてくるようになると、ブレイディさんは考えています。
女性たちは、なぜ戦争を後押しするような活動にのめり込んでしまったのか。
その理由は、「女性たちの社会進出の場だったから」だとブレイディさんは指摘します。
ブレイディみかこさん
「国防婦人会の活動は、彼女たちに許された唯一の社会進出でした。それまで、台所の中で“小さなストーリー”を紡いできた女性たちは、活動を通じて初めて自分の行動が、国家の運命つまり“大きなストーリー”を動かしているという感覚を持てたのではないでしょうか。例えば、息子を戦争に出した母親が、戦地の兵隊たちに物資を送るボランティア活動に熱中したり、若い女性たちがお姑さんと過ごす息苦しい家の中から抜けだし生き生きと国防婦人会の運動に参加したりと、それぞれに生きがいを見つけていった。その裏側には一人ひとりの人生があって、心があって、そして活動にのめり込んでしまったんだと思うんです」
下記も貼り付けておきました。
今回の本にもう1つ書いているのが、コロナ禍に女性の指導者が対応に成功したと言われていたことです。やっぱり女性のほうがエンパシーに長けているから成功したとのでは、と言われがちですが、これについては異論もあり、ニューヨーク大学の社会学教授キャスリーン・ガーソンは、男性の政治家たちは、女性と比較すると「指導者たるものこうあるべき」という鋳型にはまりがちで、たとえエンパシーに長けた人であっても、それを公に見せまいとすると主張しています。指導者は、感情的になって思いやりや優しさを見せるより、いかなる状況でも動じない強さやパワーを見せなければと思い込んでいるというのです。だから、コロナ禍でも女性みたいに、エンパシーのあるところを見せられない。女性指導者たちのように、強く、決断力もあるけど、思いやりに満ちた一面もあるという、多面的な指導者像を打ち出せなくなるんです。そうだとすれば、これもジェンダーロールに囚われて自分の能力を発揮できない一例ですよね。
本当は、パースペクティブ・テイキングもできるし、エンパシーという力を持っているのに、ジェンダーロールから逸脱したら男として不利になると思い込んで自分のポテンシャルを狭めている。逆に、そういうことは女性の側でもあると思うんですよね。
そういうことからもっと自由になると自分も周囲も楽になると思います。他者の視点をたくさん獲得して、いろんな考え方があることがわかれば、たとえば子どもだって、自分の親が言っていることとか、先生が言っていることがすべてじゃない。もっといろんな考え方、いろんな見方をしている人たちがいるんだってわかって、息苦しさがなくなる。
その集大成が、今とは違う社会があると想像して、新たな社会を創り出していく力につながっていくと思うので、その第一歩として、他者の視点を獲得するっていうのはすごく大切な、エンパシーの第一歩だと思います。
下記はこの本の中で、個人的に一番唸ってしまったところでした。確かにそうかもしれませんね......。
〜たとえば、マルクス以降の経済学や社会科学、フロイト以降の心理学や精神医学、あるいはソシュール以降の言語学や言語思想を思い起こしてみればよい。マルクス、フロイト、ソシュール等のテクストは、ときに、批判を超越した権威と見なされている。
マルクスの『資本論』や『経済学・哲学草稿』を読むことを通じて、資本主義や人間の社会的なあり方についての真実が探究されてきた。フロイトの『夢解釈』や『モーセという男と一神教』の解説を媒介にして、人間の心理の真相が考察されてきた。
あるいは、ソシュールの『一般言語学講義』の解釈は、そのまま言語や人間精神のあり方を探究するものであると見なされてきた。
こうした研究において、マルクスやフロイトやソシュールのテクストに対する態度はまことに権威主義的であり、それらは真理の基準そのものを与えているかのように扱われている。〜