うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

何となく写した写真と、「廃虚の女王」マヤカン どう保存して活用するの!?と、「Candy Dream」と【 現実に立脚する知覚ではなく、まずは幻覚が生み出され、結果的に幻滅に至るのが、心的装置の初期条件なのである。】

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 昨日アップするつもりが、すっかり忘れていました.......。

年度末、年度初めはヒッチャカメッチャカ!

 

 下記は、自分も行きたいところでした。行けば気持ちが創作に向くように思います。

  下記は少し前のものですが、中々素敵な曲とバンドでした!ブラックミュージックファンには、嬉しいバンドですね!
Q.A.S.B.は、1970年代を中心としたソウル/ファンク、レアグルーヴを、その後のダンスミュージックシーンを通過したメンバーによる解釈のもと現代に蘇らせ、後世に伝えることを目指した“現行”のレアグルーヴバンドだ。

 

  脱錯覚と言うのは、対象関係論というか、ウィニコットでは重要なものでしたね。

  〜ころで、心的装置が快原理に基づいているという基本前提を認めるとして、しかしそれでは、心的装置は生きていけないことに気づく。

  ぜなら、快原理は外界の状況に対して関心を、向けないわけであるから、快ばかりを追求している以上、遅かれ早かれ、生物としての生存そのものの危機に直面せざるをえないからである。

  案」には次のように記されている。「私の考えでは、こうした欲望による生気づけがまずは知覚と同じものを、つまり幻覚を生み出すことは疑いない。これに続いて反射的行為が開始される場合、幻滅が起こらずにはすまない」(フロイト「心理学草案」、p.32)。

  実に立脚する知覚ではなく、まずは幻覚が生み出され、結果的に幻滅に至るのが、心的装置の初期条件なのである。

PCR検査と、『資本主義と死の欲動』と、「一太郎」禁止令? 農水省「ワード原則化」通知と、【心的装置が一次的に快原理に従うということは強度に従うのであって、絶対量に従うのではない。快は単に、刺激興奮の量が少ない状態ではなく、刺激興奮の量が時間的に減少傾向にある状態のことであり、逆に、不快とは単に、刺激興奮の量が多い状態ではなく、刺激興奮の量が時間的に増加傾向にある状態のことなのである。】

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 PCR検査の結果が来ました!まだ全員の結果ではありませんが、取り敢えずは自粛の効果がありました。まだまだ油断できませんし、万が一仕事で感染してもそれはそれで仕方がありませんので、きちんと治療を受けることが出来るようにしておきたいと思っています。もう誰が感染してもおかしくないですね。でも対策はきちんと継続していきます!

  RT-PCRとあったので、安心しましたがいつの間に簡単にこちらの検査が出来るようになったのか?そういう報道はあんまり見ることが出来ませんよね?新型コロナのDNAは1本鎖なのでこちらですね(RNAウィルスは1本鎖で不安定なので変異しやすいのが特徴です)。と、よく見たらReal Time  RT-PCRでした。(コロナウィルスは1本鎖のRNAウィルスなので、通常のPCRの前に2本鎖にする工程(RT-PCR、逆転写ポリメラーゼ連鎖反応)が必要です。コロナウィルスは変異しやすいですが、PCRでは変異しない部分を標的にしますから、変異してもPCRで検出できます。)

PCR

生命の最小単位である細胞では、細胞分裂の際にDNA複製が行われる。DNAの二重らせん構造は解かれ、その一本鎖DNAが鋳型となり、DNAポリメラーゼ(合成酵素)によって新たなDNAが完成する。PCR(polymerase chain reaction;DNAポリメラーゼ連鎖反応)は、このDNA複製を人工的に繰り返すことで、目的とする塩基配列のみを効率的に増やすことができる技術である。RT-PCRやreal-time PCRと区別するため、conventional PCRやDNA-PCRと呼ばれることもある。

二本鎖DNAは、高温環境下で変性し、一本鎖DNAに分かれる(Denaturation)。逆に、一本鎖DNAは冷却すると、二本鎖DNAに結合するように働く(Annealing)。PCRは、このDenaturationとAnnealingを利用する。PCR反応液中に、検出対象となるtemplate DNA、DNAポリメラーゼ、一対のプライマー(Primer)を加え、加熱と冷却を繰り返し、PCR産物の有無を確認する。

PCRで最も重要なものがプライマーである。プライマーとは、増幅させたい塩基配列の両端をターゲットとした相補的配列のDNAである。一般的に,各々のプライマーは18 ~ 24 bp程度に設計し、増幅させたい塩基配列は80 ~ 160 bpとする。PCRの場合、このプライマーの配列が特異的であることが望ましく、また、このプライマーの配列によってAnnealingの温度が決定する。

RT-PCR

PCRがDNAを増幅させる技術である一方、RT-PCR(reverse transcription PCR)はRNAに対してPCRを実施する手法である。逆転写PCRRNA-PCRなどと呼ばれることもある。

RT-PCRは、まずRNAから逆転写酵素reverse transcriptaseによってcDNAを合成し(cは相補的complementaryのこと)、あとはcDNAに対して通常のPCR法を行う。そのため、逆転写酵素の過程以外は検査方法の原理はPCRと同一である。実際の操作でも、逆転写酵素反応の1ステップのみが増えるだけで、それ以外の追加作業を要さなくなるまで試薬などが進歩している。用語や技術の説明は上述の「PCR」を参照。

Real-time PCR

リアルタイムPCR(real-time PCR)は、PCRによるDNA複製過程をリアルタイムに測定する手法である。PCR産物をサイクル毎にモニターするため増幅産物の定量ができ、また検出も兼ねているためアガロースゲルを使用したDNA断片の確認操作を省けるといった利点がある。定量PCRなどと呼ばれることもある。

Real-time PCRは、増幅産物を蛍光物質の測定によって定量する。そのため、real-time PCR装置は、蛍光色素を励起する励起光源、蛍光を検出する検出器、PCR装置(Thermal cyclerとも呼ばれる)を組み合わせた物である。PCRで増幅させるDNAの両端にある2つのプライマーに加えて、その間に相補的配列を認識するプローブ(Probe)を用いる。プローブは、増幅されるDNAに特異的な配列を用いるため、目的とするDNAが増幅されたのかを確認することにもなる。プローブが加えられている以外、検査方法の原理はPCRと同一である。用語や技術の説明は上述の「PCR」を参照。

現在では、多くのreal-time PCR法が開発されているが、TaqMan®プローブ法とSYBR® Green法が簡易なため主流となっている。増幅産物の1塩基変異を検出できるLNA®プローブ法なども応用されている。

(平間 崇)

 

 下記のニュースを見ていたら、ちょうど読んでいた本にこんなことが書かれていました。教科書以外で個人的に選んでしまうのは(精神分析の本を選んでいるだけですが)、教科書に書かれているのとは正反対のものばかりです........。 フロイトケインズとの関係はこの本で自分は初めて知りましたので、まだまだ勉強不足ですね.....。

 『資本主義と死の欲動フロイトケインズより

エピローグ 資本主義のかなたに

いかなる豊かさ?

 フロイトケインズ、および他の何人かの思想家が、芸術家と創作家の人物をあまりにも高く評価しすぎていることを批判するのは容易である。だが、今日、この行き過ぎた評価は、無料のソフトウェアの伝説のなかに見いだされる!無料のソフトウェアのプログラム作成者は、マイクロソフトのような閉じたソフトウェアの提供者が課する所有権に対して反抗している。マイクロソフトは、ソフトウェアの提供者を研究の快樂のなかに縛りつけている。もちろんこのプログラム作成のエリートたちは十分な報酬を得ているが、その「芸術的」活動は知的所有権の独占によって制限されているように思われた。官庁、あるいは民間企業の大規模な管理は、ついに無料のソフトウェアの飛躍的発展を導入するに至ったが、そのことは、無償および創造する快樂にもとづく、自由で、協同的な、ネットワーク化された活動のほうが頭脳の旧来的な搾取よりも効率的だ、ということを示している。無料のソフトウェアのプログラム作成のモデルは、たんなる芸術家あるいは研究者であり、その本質的な動機づけはけっして金銭ではない。われわれの提言によれば、物質的経済に代わって知識経済が出現することは、否定することのできない道である。認識の豊かさが財の希少性にとって代わるならば、われわれは芸術家の社会を夢想することができる。あるいは少なくとも、瞑想的で、純粋無垢で、幸福な、聖書を模写したようなしを、にもかかわらず協同と発明においては活動的な社会を、夢想することができる。

 

 

『資本主義と死の欲動を今日は読ませて頂いていましたが、やはり心理学草案を読んだことがあるないで、読み方が変わってしまいそうですね。

 しそうだとすれば、先述した、「草案」における「交流する容器」の喩えを、次のように理解できるように思われる。

 まり、「Ψの水準が高まるとωにおける備給は増大し、逆に〔Ψの〕水準が低下すると減少する」とは、Ψニューロン内の量の大きさが変化すると、ωニューロンはその変化速度を受け取り、それが快と不快を生み出すことである。

 からこそフロイトは、「備給の絶対量」に関わるニューロンとは別に、「単位時間内における備給の変化」(変化速度、あるいは強度)に関わるωニューロンを新たに想定し、両者を「交流する容器」で結ぶ必要があった。 

 目すべきなのは次の点である。物理的な外界においては、絶対量が重要であるのに対して、意識を生み出す心的装置においては、単位時間内における量の変化を表す強度が重要である。

 的装置が一次的に快原理に従うということは強度に従うのであって、絶対量に従うのではない。快は単に、刺激興奮の量が少ない状態ではなく、刺激興奮の量が時間的に減少傾向にある状態のことであり、逆に、不快とは単に、刺激興奮の量が多い状態ではなく、刺激興奮の量が時間的に増加傾向にある状態のことなのである。

 理学草案」から『快原理の彼岸』を経て「マゾヒズムの経済論的問題」に至る長い期間をかけてフロイトが、量と質を組み合わせながら語ろうとしたのは、このことではなかったろうか。

ゆうちゃんの誕生日と、今日もきれいなお月様と、コロナ後の世界と「ブルシット・エコノミー」/デヴィッド・グレーバーと、18番目のSDGsと【意識の成立には、量から質への転換が必要である。そして、その転換には、時間的な経過による量の変化が関わっている。】


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 今日はゆうちゃんの、何回目かの誕生日!人生100年の時代!歳は関係ない!

ケーキはいつもボランティアさんが、豪華でとっても美味しい(自分は中々口にすることはありませんがw今日はカットしているだけでもいい香りが.....)作ってくれます。

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  皆さん美味しそうにお寿司とケーキを食べておられました!コロナ禍の中、席は遠いですが......。

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 夜勤の休憩時に外に出たら、今日もきれいなお月様が出ていました!

 記事のアップもずっと続き(笑)。でも、やっぱり下記のようなことが引っ掛かってしまいますね........。

ケア労働の逆説

 もちろん、仕事の中断を余儀なくされている職種のなかには、その再開が望まれるものも多い。けれどもたぶん、ないほうがよい仕事のほうがずっと多いだろう──特に、気候変動による全面的破局を避けようと望むのであれば。
(配下に自宅勤務を許可するよりも光り輝くオフィス・タワーで指図をしたいという企業官僚たちの虚栄心を満足させるだけのために、どれだけの二酸化炭素が大気中に撒き散らされ、どれだけの生物種が永遠に失われることになるのか、考えてみたほうがいい。)

 もしもこうしたことがまったく当たり前のようには思われず、経済再始動の論理が何らかの意味を持っているように聞こえるのだとしたら、それはわたしたちが、「生産性」という古き20世紀の規則に従って経済を考えるようにと教えられてきたからだ。
 現在、言うまでもなく、多くの工場が(すべてではないけれど)閉まっている。冷蔵庫や革ジャケット、プリンターのカートリッジや洗剤などの在庫は、いずれ補充されなければならない。けれども、わたしたちが今回の危機を通して深く実感することになったのは、今日では、最も必須の労働の大部分は、古典的な意味で「生産的」なものとは言えない──要するに、それまで存在していなかった物理的対象をつくり出すことと結びついたものではなくなっている、ということだ。
 今日の必須の仕事(エッセンシャル・ワーク)のほとんどは、何らかの種類のケア労働であることが明らかになった。他の人びとの世話をし、病人を看護し、生徒に教える仕事。物の移動や修理、清掃や整備に関わる仕事。人間以外の生き物が繁栄していけるための環境づくりに取り組む仕事。
 こうして人びとは、現在のわたしたちの報酬システムが、とんでもなくおかしなものだということに気づき始めている。あるひとの仕事は、それが明らかに他の存在をケアし、利益をもたらしさえするようなものであればあるほど、見返りが少なくなっていくのだから。

 


 下記は、自分が学んでいるところの授業の発表?かな?井坂聡先生のプロデュース・プロジェクト。自分は土曜日の対面の授業がコロナ禍で受けられず、ロゴの制作だけ依頼され、自分の能力だけではできなかったので(笑)、ウェブデザイナーさんに助けて頂きました!ロゴの制作は『アトリエ・カーグ』にさせて頂きました。院生が書いた脚本物が2本ありますので、そちらも是非、ご高覧下さい!自分は2期生さんたちとこの授業を受けますが、今度は音楽で参加させていただきたいですね!

 それと、自分なら0番目のSDGsを作るかな?本当に達成可能なのか?今ここで起きていることから、過去や未来に起こったことや起こることを吟味して、大風呂敷を広げていないか?いかんいかん(笑)、SDGsに溺れたふりして何とか卒業(出来たらのはなしw)!


 

 この本は社会学の本だったよな~と、またまた思ってしまいました。なんか逆に分かりやすくないですか?精神分析関連の本よりも!

 識の成立には、量から質への転換が必要である。そして、その転換には、時間的な経過による量の変化が関わっている。

 らに、快・不快は「備給の絶対量」ではなく、「単位時間内における備給量の変化」(強度)によって生じる。


 〜「理学草案」・『快原理の彼岸』・「マゾヒズムの経済論的問題」の著者であるフロイトは、何にこだわっていたのであろうか。それは、量と、その量の質的側面(奇妙な表現だが)との違いである。

 のことを最も端的に表現しているのが、「刺激量の変化・増大・低減の描く時間的経過」あるいは「単位時間内における備給量の変化」という言葉である。

 の言葉を文字通り真面目に受け取るならば、量の質的側面とは、量の変化速度のことであろう。

先日と今日のうたたねと、〈黄色いベスト〉運動/デヴィッド・グレーバーと、【同じだけの変化であっても、それが短時間内出での変化か、長時間かけての変化かによって、その強度は異なる。】

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 上の2枚は先日のうたたねの写真です。ホームの皆さんは、今日はどんな方がショートに入られるのか?毎日興味津々です!

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今日は散歩やドライブ、すろーの湯で楽しみました!
 

  下記も、このところの続きですね。フランスの大統領にでもなろうと思うなら、哲学をきちんと勉強し、理解していなければなれないと、何かの本で読みました。しかし、このネット環境が発達し、知識や情報の非対称性が崩れようとしている時代には、よほど突出した知識がなければ、人の上に立つなんて出来ないのかも知れませんね。

慣習的なカテゴリーをもってしては、現に起こりつつあることをまったく記述しえないということ。それが真に革命的な瞬間というものの特徴のひとつなのだとしたら、わたしたちは今まさに、革命的な時代を生きている。

 〈黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)〉〔以下、時に「GJ」〕は、目下急速にその蜂起のクライマックスへと大またで向かいつつあるが、これまでこのドラマが新たな「幕」〔毎週土曜の行動がこのように呼ばれる〕を開くその度に、フランスの解説者たちは──ましてや外国の解説者たちは──、深い混乱を、いやさらには信じられないといった態度をさえ、示してきた。
 思うにそれは、過去50年のあいだに、しかしとりわけ2008年のリーマン・ショック以降に、権力が、労働が、反権力の運動が、どのように変化してきたのかを考えるということに関して、彼らがほぼ全面的といってよい無能ぶりを晒しているからなのだ。知識人たちは大部分、こうした変化をほとんどろくに理解してこなかった。

 

 自分は、下記をアップしたかったので、ここまで引きずらせて頂きました。これは自分たちの現場でも、支援方法を考える上で大事な要素の1つです。しかも上位の!

 

 〜こでフロイトは、快原理が根本的に量の問題であるという「草案」以来の考えを再確認している。

 だし、ここで問題となっているのは、量の大きさそれ自体ではない。そうではなくて、量が時間経過の中で増加や減少する変化こそが問題なのである。

 じだけの変化であっても、それが短時間内出での変化か、長時間かけての変化かによって、その強度は異なる。

 じ高さの山でも、ゆるやかな傾斜の山まであれば急峻な山もあるわけで、登山者にとってこの違いは、高さの違い以上に必要である。フロイトは、快・不快を捉える上で、この点が重要だと考える。

椿の花と、不思議な空と、「効率化」は幸福をもたらさない。〈コモン〉の力で社会変革を!と、【おそらくは、時間がたつにつれて減少したり増大したりする度合いが、感覚にとっては決定的な契機である」(p.56)。】

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 今日は日勤でしたが、人員配置が万全でしたので、朝の送迎が終わったら、久しぶりに事務所でパソコン仕事をさせて頂き、大学院の履修登録も、こそっと(笑)させて頂きました。午後からは入浴介助に入りました。肌の状態で体調まで分かってしまう様になるまでは、その方によって時間の長短はありますが、手で触れていれば知らない内に分かるようになりますというか、なってしまいます。

 

 下記は続きですね。大きな声では言えませんが(笑)、自分は今、全く違う方向を学ばせて頂いています。太陽光発電システムとか言うけれど、パネルを作るのにどれだけ化石燃料を使うのか?しかもグローバルサウスの国々が!

 またパネルの寿命が来たらどう処理するのか?自転車操業は中小企業だけの専売特許ではなくなり、じっくり考えても中々答えが出ないこと(不慮の事故や天災が起きた時の処理のやり方、例えば原発事故とか)を走りながら国家プロジェクトとしてやってしまっている気もしています。卒業まではアヘンに溺れた振りをしておきます(笑)。

〈コモン〉を再生させるコミュニズム

――意識したいのは、自身が消費者でいられるのは誰のおかげかということです。

斎藤 『人新世の「資本論」』でも述べたとおり、現在の資本主義社会はグローバル・サウス(=グローバル化によって先に被害を受ける領域や住民のこと)の犠牲によって支えられています

資本は利益を増殖させるのに、「弱い」国、地域、人種、女性から搾取をしています。日本で行われている業務効率化も、非対称的な力関係に乗っかる形で進められている。そういった形の効率化で最も利益を得ている人が何兆円もの資産を持っている。使いきれないくらいの資産にどんな意味があるというのでしょうか。その意味で私は金持ちの資産に上限を設けることだってアリだと思っているんです。

――製造業の現場から社会空間まで、多くの機械や人工知能といった“ロボット”が仕事をしていて、それが莫大な利益を企業にもたらしているのに、ロボットには納税の義務が課せられないという問題に対する解の一つですね。

斎藤 そう、「ロボット税」があったっていい

また、先人たちの作った文化の積み重ねにタダ乗りしながら、多くの事業が成り立っているという点も大事です。

たとえば、Amazonがつくりあげたネット書店というシステムはイノベーティブだと言われていますが、「考えを書物に残す文化」や「本を読むという文化」にタダ乗りしている。そうした公共的な文化の枠組みの恩恵を受けた上で、Amazonの事業は成立し、その文化を破壊しながら膨大な収益をベゾス個人が独占している。

つまり、“公共財”を企業が囲い込んで、独占しすぎているのです。その結果、資本主義がいくら発展しても、私たちはいつまで経っても、貧しい。むしろ、それを共有財産に戻した方が、私たちはもっと豊かになるのではないか。行き過ぎたAmazonにブレーキをかけた方が、文化の豊かさを取り戻せる可能性がある。

それが、私のいう〈コモン〉(共有財)の考え方です。人々が暮らしていくのに必要なもの、電気・水道といったインフラから文化までさまざまなものが<コモン>ですが、市民がもっと自発的に、いろいろなモノやサービスを管理できるようになるための制度や組織を、もう一度作っていくべきなのです。

――斎藤さんは、企業でもなく国でもない〈コモン〉という民主的なつながりで生産手段を共同管理し、労働や、また資源や財産、それこそお金をも皆で運用し合って共有していく共同体の再建を提案されています。それが「脱成長コミュニズム」ですが、新刊にもあるとおり、そうした実践がいま世界中で始まっていますね。

斎藤 はい、〈コモン〉とは、私営でも、国営でもなく、市民がもう一度自分たちの生活に必要なものを自分たちで管理していく、「市民営化」の道を目指す試みです。市民電力でもいいし、公共交通機関の無償化でもいい、給食の無償化・有機野菜利用もそうです。市民の力で、無限の利潤獲得に突き進む資本主義にブレーキをかけるしか、気候変動を止めたり、分断・格差をなくす道はありません

 

  そろそろ違う本からの引用とも考えていますが、凄いスピードで大量に読んでしまっているので、どれにしようか?悩んでいますが、言いたいことはもう少し!

7.変化と絶対量
  〜「と不快は、心の生活のうちに現存しているーーただし、なんらかの形で拘束されているわけではないーー興奮の量と関連づけられるべきであり、しかも、不快はこの量の上昇に対応し、快はそれの減少に対応する」(フロイト「快原理の彼岸」p.56)。

   が、不快・快と量の上昇・減少との対応関係は、見かけほど簡単ではない。「その場合、〔快・不快の〕感覚の強度と、快・不快が対応づけられる〔量の〕変動との間に、単純な関係が成り立つと考えられているわけではない。

 してーー精神生理学のあらゆる経験からしてーー直接的な比例関係が成り立つとは、ほんの少しも考えられていない。

  そらくは、時間がたつにつれて減少したり増大したりする度合いが、感覚にとっては決定的な契機である」(p.56)。

今日のうたたねと、きれいな月と、本が来ましたと、SDGsは「大衆のアヘン」。資本主義に緊急ブレーキを!と、【 このように「周期」は、量から質への転換の際に重要な役割を果たす。そしてその転換には「時間的性質」が関係していると想定されている。しかしながらその詳しい内実は、「草案」内部では明快に展開されはしなかった(p. 337の編注〈51〉も参照)。】

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 今日の日中は、午前中は滝頭に桜を見に行ったり、ロングビーチでサーフィンを見たりしてきましたが、午後からは利用者さんが多く、入浴介助と送迎で一日が終わりました。

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 昨日も今日もお月様がきれいでしたが、

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 今日のお月様には、ウサギが餅をついていました(笑)。

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 今日も本が来ました!資本主義と死の欲動は読み始めました。コロナ以前の本ですが、この状況を言い当てていますので、こうなる宿命だったのかも知れませんね。
フロイトケインズが看破した「資本主義」の自己破壊への道
貨幣とは病的欲望の対象であると指摘したフロイトに応答し、世界恐慌のなかで、経済成長は「死の欲動タナトス)」の先送りだと看破したケインズ。二人の天才のメッセージを通じて、経済的な「自由」の拡大とされる現代のグローバリゼーションが、実際は自己破壊のリスクの際限ない拡大であることを示す。ケインズ研究の大家と気鋭のエコノミストによる野心作。とあるように、読み応えのある内容です。


 下記は、昨日の続きですね。 エッセンシャル・ワークが、メディアでも一時取り上げていましたが、樫村先生が書かれているように、お金にならなければ取材・報道しないネオリベベラズムの時代。彼らが(自分達でもありますが)本当に認められて、収入も上がると言う報道を見聞きしただけで、友人の社会福祉法人では既にコストをカットする方向にあるとメールを頂きました。今こそメディアが揃って、エッセンシャル・ワーカーを取材しその現状を世界に報道すべきではないでしょうか?

意味のない仕事が生み出す労働の「疎外」

――考えてみれば、そもそも化粧品のパッケージデザインをピクセル単位で調整したりすることに多大な労働力を割き、わずかな差異に人々を熱狂させるというのは、労働の目的からも、商品のもともとの効用からも相当にかけ離れているといえます。

斎藤 マーケティングや広告、コンサルティング、金融業や保険業といった「重要そうに見える仕事」は、実は社会にとって本当に重要なものを生産していないのではないか。そのことに、仕事をしている本人たちも薄々気が付いているのではないか。そういう仕事を「ブルシット・ジョブ」(くそくだらない仕事)と呼んだのがデヴィッド・グレーバーですが、その指摘に耳を傾けるべきだと思います。コロナ禍で明らかになったように、本当に社会の役に立っている仕事、エッセンシャル・ワークは、医療や介護、教育や農業など、別の分野にあるのです。


 ケインズフロイトが繋がっているということを知り、夢中で『資本主義と死の欲動』を読み始めて、下記のことは自分の中では、内在化されつつありますが、精神分析が出来上がる寸前には、こんなに沢山のことが考えられていたんですね。まだまだ勉強不足.........。

6.周期の謎
 〜案」では、「周期」に関して以下のように書かれている。先に引用したように「神経系はその構築からすると、外的量を質へと転換するための仕組みからなっていると期待される」(フロイト2010'p.20)。

  は、どうやってこの転換は成し遂げられるのか。「私の見るところでは、困難を切り抜けるにはQnの経過に関する基本想定を変更するしかない。

 こまで、Qnの経過はもう一つのニューロンから別のニューロンへのQn転移として見てきた。しかしQnの経過はもう一つ別の性格、時間的性質を帯びた性格を有しているに違いない。……こうしたし時間的性質を私は手短に周期と呼ぼう」(p.21)「そしてこの〔感覚器官による外的量の周期への〕変様こそ、Φを通り、Ψを経てωへと継承され、ほとんど量を欠くようになったところで質の意識的感覚を生むものなのである(p. 22)。

 のように「周期」は、量から質への転換の際に重要な役割を果たす。そしてその転換には「時間的性質」が関係していると想定されている。しかしながらその詳しい内実は、「草案」内部では明快に展開されはしなかった(p. 337の編注〈51〉も参照)。

PCR検査と、エアコン掃除と、桜とシデコブシと、ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのかと、【快の追求は究極的に、量がゼロの状態、言い換えれば死の状態をめざしていることになる。】

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  今日、自分はPCR検査用の唾液を容器に入れましたが、皆さん2cc出すのに、みかんを見たり(笑)、大変そうでしたが、いざ自分がやるとなると、やっぱり大変でした。

 周囲ではまた感染者が増えてきているので、もう誰が感染してもおかしくないのかも知れませんが、何とか踏ん張りたいし、踏ん張りどころですね。まあ、感染者が出たら出たらで対処していくしかないですが。

 

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  今日は年に1度の全室のエアコンや浴室の暖房・換気の大掃除でした。PCR検査もあり、看護師と主任が忙しそうでした。

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  利用者さんと桜を見に行ったら人が沢山いて、降りることが出来ず、車窓から見て帰りました。ソメイヨシノは後2~3日くらいで満開でしょうか?

 

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 その前に、シデコブシを見に行ったらこちらも人が沢山......。兵庫県からシデコブシを描きに来ておられる方がいました。

 下記は昨日の続きですが、樫村愛子先生の3冊目『臨床心理学ならこう考える』も、ネオリベベラズムのことを扱っています。やっとシニファンを調べなくてもよくなりました(笑)。社会学からラカンに入るなんて思ってもみませんでしたが........。

日常に浸透するネオリベラリズム由来の価値観

現在普及している意味でのこうした語彙はすべて「ネオリベラリズム新自由主義)」という理念体系に由来するものであるが、要するに、このネオリベラリズムという古くて(起源は第一次大戦ごろにさかのぼる)あたらしい(支配的政策として普及するのは1970年代以降である)思想とそれに由来するさまざまな価値観がわたしたちの日常をも支配するようになったのである。

おおよそ、日常に浸透したネオリベリズム(これを「日常的ネオリベラリズム」という)の教えるところは、こうである。

「民営化」すれば無駄もなくなり生産性もあがり、人々も働く意欲をもつなど、いいことづくめである。なぜかというと、「民間企業」は市場原理にのっとって動いているわけで、効率性を至上価値とする市場原理にムダはありえない。したがって、すべてを「民間企業」のように運営すればまちがいないのだ、と。

ネオリベラリズムは資本主義的でないものを根絶する傾向をもつ

ネオリベラリズムはいつも、そうした反応があった場合、つねに攻撃的態度をとってきた。

守旧派」とか「抵抗勢力」といったレッテルが、「敵」に対してふりまわされるのは、日本だけではない。

たとえば、ネオリベラリズムの理念が最初に実地で展開されたのは南米のチリであるが、そのきっかけはクーデターであった。選挙を通して社会主義政権が成立した直後、アメリカ合衆国のバックアップによって、クーデターでその生まれたばかりの政権は転覆される。その後、軍人アウグスト・ピノチェトを指導者とする新政権は、独裁政治をおこない、そのもとでチリは、米国のエリートと米国で教育を受けた現地エリートのネオリベラルたちによって、政策実現のいわば実験場と化してきた。

ネオリベラリズムの総帥フリードリヒ・ハイエクは、その独裁政権を擁護し、その体制のもたらす「個人的自由」を称揚しつづけた。おびただしい人間が誘拐され、拷問され、虐殺されていたにもかかわらずである。

ここで確認しなければならないのは、ネオリベラリズムとは経済学的教義であり、あるべき市場や経済のあり方を指し示す理念であるのではなく、この世界総体の再構築をもくろむ政治的プロジェクトであるということである。

そしてそれは、「社会」の領域に根ざす人間的領域からの反発、すなわち資本主義的原則に順応しない慣行、規則、制度、あるいはそれとは異なる理念に由来する行動などなどを、すべて根絶する傾向をもつ。

いまネオリベラリズムは、独裁を口にしてはばからないブラジル大統領ジャイール・ボルソナロをそのひとつの代表的な顔としてもっているが、そのような「権威主義的」で「反民主主義的」要素は、もともとその教義に内在する傾向なのである。

グレーバーの有名な言葉に「資本主義を世界でただひとつの可能なる経済システムであるようにひとにおもわせる選択と、資本主義を実際にもっと生命力のある経済システムにしようとする選択肢があるようなとき、ネオリベラリズムはつねに前者を選ぼうとしてきた」というものがあるが、これはこのようなネオリベラリズムの性格をよく表現している。

ネオリベラリズムは、たとえみずからの守護する資本主義を多少なりとも犠牲にしても、みずからへの抵抗をつぶすほうを選ぶのである。

サッチャーの言葉である「TINA(There Is No Alternative)」、つまり「オルタナティヴは存在しない」(この道しかない)は、ネオリベラリズムイデオロギーとしてよく引き合いにだされるが、それはたんにネオリベラリズムを強硬に押しつけるさいのレトリックにとどまるものではない。

資本主義に支配されたもの以外の世界の可能性を匂わせるようなすべてのものを抹殺することは、ネオリベラリズムに内在する衝動なのである。

ネオリベラリズムと官僚制との相性のよさは、そこにも理由のひとつがある。官僚制とは、なによりもまず人間の想像力への攻撃だからである。


 この辺も社会学の本からまた学ぶことになるとは思いませんでした。もしかしたら、自分が目指しているのは、社会学なのかな?と、思ってしまいました。

 一つのことを真剣に考えていたら、行きつくところまで行くと、それから派生してどんどんアイディアが出てきますが、それは本当に考え続けることでしか得られないものですよね?
 ロイトの快原理は通常、次のように解釈される傾向があった。欲動エネルギーの量の水準が高い場合には不快が生じ、逆に低い場合は快が生じると。

 際、「草案」においても、この解釈を思わせる箇所は確かに存在する。例えば、既述した「一次的な慣性傾向」という表現がそれである。

 れでは、心的装置にとって最初の状態とは何か。心的装置は生命体である。さらに、生命体の最初の状態とは何か。言うまでもなく永遠の生命体が存在しえない以上、生命体の最初の状態は、生きていない状態すなわち死の状態である。

 れは、量がまったく流動しない静止状態である。もしこの解釈が正しいとすれば、快の追求は究極的に、量がゼロの状態、言い換えれば死の状態をめざしていることになる。

 ロイトは後年、このような「一次的な慣性傾向」を、一切の煩いを脱した状態を示す仏教用語を借用して、「涅槃原理」と呼んだ。

ぶどうの写真と、なぜ「クソどうでもいい仕事」は増え続けるのか?【不快とは、外界から何らかの刺激興奮が心的装置に働きかけることによって、静止状態がかき乱されるような状態である。そして、そのような動的撹乱状態をできるだけ避けようとするのが、心的装置の「一次的な」傾向、いわば初期条件である。】

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  院生の方が山梨県出身の方で、ワインの話になったので、ワイナリーで働いていた時の記録用の写真を見て見ました。色々と思うところや思い出すことがあります。

 

 

  今日は休みだったので、すろーじゃむでゆっくり本を読んだり、ギターを弾いたりしてました。樫村愛子先生の下記の本を読みおえました。6セメスターから始まる予定の産業心理学に使えそうな箇所がてんこ盛り(笑)、でした。ラカンを読まないといけませんね。竹中先生、樫村先生を読ませて頂き、フロイトラカンに少しだけ近づくことが出来たかな?と、少しだけ(笑)幹事ました。難しいですよね……。

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 下記は、読みたい本の一つです。まあ、この記事は一つではないので、少しは読んだ気になれそうです(笑)。本もきちんと読みますね。

2.BSJとSJは反転した関係にある

つまり、だれかがキツくて条件の劣悪な仕事をしているとすると、その仕事は世の中の役に立っていることが多く、当人もそう感じていることが多い。まさにBSJとは反対である。

グレーバーはこのようにいっている。

「その労働が他者の助けとなり、他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」。

これは大事な論点だ。

 

 樫村先生の本は2冊読ませて頂きましたが、あまりにも現実を突いているので、アップを忘れてしまっていました!

 〜れではフロイトは「草案」において、快とは何かについて具体的にどう考えたのか。まず彼は、「不快を避けるという心的生の傾向」を「一次的な慣性傾向と同一視したくなる」と考える(フロイト「心理学草案」、p.23)。

 こで、慣性という用語が比喩的な意味で用いられているが、慣性とは、外から力が働かない限りは、物体はその運動状態を変えないことである。

 えば、最初に静止していたならば、ずっと静止したままである。とするならば、次のように言えるであろう。不快とは、外界から何らかの刺激興奮が心的装置に働きかけることによって、静止状態がかき乱されるような状態である。そして、そのような動的撹乱状態をできるだけ避けようとするのが、心的装置の「一次的な」傾向、いわば初期条件である。

PCR検査キットが来ました!と、馬酔木の花と、今日のうたたねと、キレイな空と、「夜中に甘いものが食べたい」三流は食べ、二流は我慢する、では一流は?と、【つまり、物体としてのニューロン中を流れるのは刺激興奮の「量」なのであるが、それに対して、意識は「質」の世界である。】

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  PCR検査キットが来ました!愛知県は高齢者施設と、障碍者施設の居住系施設職員の検査があります。常勤非常勤関係なく、あたりまえでしょうが、検査します。

 自分は利用者さんたちと、クラスターが出た病院に何度も長時間待ちをしているので不安もありますが、出たら出たで仕方ないですね。今、福岡真一先生の『迷走生活の方法』を半分くらい読ませて頂き、福岡伸一先生がこの状況下、黙っておられてはなかったことに安心しました。

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  惰眠を貪る私はすでに迷走生活をしているかもしれない。おかげさまで身体は丈夫です!(小泉今日子)
コロナ時代に必読の福岡ハカセのエッセイ集。
「コロナ時代のいま、福岡ハカセの提唱するのは、知的生活ならぬ『迷走生活』なり。むろん右往左往する生活のことではなく、迷走神経を活性化する生き方を目指そう、というもの。(中略)迷走神経が優位にある時、心身はリラックスし、ストレスは低減、免疫系は活性化され、病気は遠のき、ウイルスも退けられる。人生百年時代。長く、健やかに生きるためのコツがすなわち「迷走生活」。本書のコラムはすべて、そんな気持ちを常に心にいだきながら書いたものです」(まえがきより)

「節制」と「抑制」の違い

——「節制」ということは、やっぱり「ツラくてもガマンしなさい」という話じゃないですか。そんなことなら、いちいち哲学を持ち出さなくてもわかります。

いや、ツラいのは「抑制」であって、「節制」からは喜びが生まれるというのが、トマスの哲学の考え方です。「節制」と「抑制」は言葉としては似ていますが、決定的な違いがあるのです。

 

 

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 〜れで、この「質」はどのようにして成り立つのであろうか。フロイトは、「質」をうみだしてくれる特別なニューロンが、ΦニューロンとΨニューロンとは別に存在するに違いないと考えた。それがωニューロンである。

 ロイトはこう記しているニューロン「そこで勇気を奮い起こして、ωといった第三のニューロン系が存在すると想定しよう」(p.20)。ωニューロンで生み出される「質」こそ、物理的な外界とは異なる「意識的な感覚」の世界である(p.20)。

 ここでは、量と質の関係が問題になっている。「自然科学は量のみを認めるが、我々の意識は質のみを提供する」(p.20)。つまり、物体としてのニューロン中を流れるのは刺激興奮の「量」なのであるが、それに対して、意識は「質」の世界である。

 経系はその構築からすると、外的量を質へと転換するための仕組みからなっていると期待される」(p. 20)。すなわち意識と、「量」とは完全な別物なのではなく、「量」から作り上げられた「質」なのである。

 がじつは、正確に言うと、意識は上記の「質」だけで出来上がっているのではない。「意識の内容」には、「感性的質の諸系列」以外に、「それとは異なるもう一つの系列」があるとフロイトは言う。それは「快・不快感覚の系列」である(p.23)。これが後年の快原理の原型となっていることは言うまでもない。そして以上の想定から分かるように少し快と不快は、量によって生み出される。

 原理は、フロイト精神分析の中心的な概念であることが重要である。この点を忘れてしまうと、「快原理」の重要性を強調するフロイトの主張とは、〈人間はもともと、現実の厳しさに向き合い努力することから逃れて、短絡的に快いことだけを追求したがる生き物である〉という意見だと思ってしまいがちである。

 かし、「草案」を見る限り、大事なのは、快原理が量に関わるという点である。そして、快原理が心的装置にとって基本原理であるのはすなわち、質的ではなく量的メカニズムこそが心的装置の核心をなしていることを意味する(竹中、2004,p.83)。

今日のうたたねと、耳かき、しちゃダメなの?と、【すなわち、思い出すことは、直接外界からの刺激興奮によって生じるわけではない。それゆえ、「再生あるいは想起」では、外界に確固とした根拠を持つ「知覚」とは異なって、「質を欠いたもの」であるとフロイトは言う(p.20)。】

 

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 今日は一斉にカーテンをクリーニングに出したので、雨戸を閉めた部屋等あり、やはり気になりますよね。

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 キレイに洗濯物がたためたり、掃除出来たり、沢山食べることが出来るようになったり、皆さん少しずつ成長されています。ゾウの時間ネズミの時間ではありませんが、少しずつ成長していくことに、大きな意味を感じます。魔法なんてありません!

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 毎日色々ありますが、最後に笑顔で終われたこと、皆さんに感謝しています!

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 加齢や障害でいろんな処置が必要になりますが、皆さん少しも嫌がらずに、毎日毎日頭が下がる思いです。直に言えないので、こちらでお礼を言わせて頂きます!


 

 耳掻き、自分はしたくなりますね......。

Q 耳掃除はなぜ不必要なんでしょうか?
A 耳あかは耳の奥で出される皮脂などの分泌物のほか、鼓膜の表面が古くなって剥がれ落ちたりしたものですが、皮膚の再生に伴って耳あかを外側に排泄するため多少であれば家庭で無理に取る必要はまったくありません。

ただ、ここで疑問が。
Q しばらく耳掃除をしないでいると、耳がかゆくなって掃除をしたくなってしまいます。
A かくことにより一時的な爽快感が得られるので何度もしたくなりますが、掃除することで皮膚のバリアが壊れてしまい、またかゆくなるという悪循環に陥ります。耳の中の皮膚はとても薄く、アレルギーや細菌、カビに感染するとかゆくなります。


  今は、樫村先生のラカン社会学入門を読ませていますが、フロイトとの違いが分からなくなってきました(笑)。難しい本ですが.......。

  〜Ψニューロンが受け取る量には、二種類ある。一つは、Φニューロンからやってくる(外界からの刺激興奮に由来する)量であり、もう一つは、「内因性の興奮」である(p.13)。

   このような二種類の量に対応して、Ψニューロンで生じる「心的過程一般」は二種類に分けられる。第一は、外界からの刺激興奮に由来する「知覚」であり、その際には、「Φ系とΨ系とが共同して活動している」。 この場合、Φニューロンが関与するのは、Φニューロンが外界からの刺激興奮の通路だからである。

 それに対して、「おそらくもっぱらΨにおいて遂行される心的過程」がある。それは、内因性の興奮に由来する「再生あるいは想起」である(p.20)。

  すなわち、思い出すことは、直接外界からの刺激興奮によって生じるわけではない。それゆえ、「再生あるいは想起」では、外界に確固とした根拠を持つ「知覚」とは異なって、「質を欠いたもの」であるとフロイトは言う(p.20)。