うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

PCR検査と、エアコン掃除と、桜とシデコブシと、ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのかと、【快の追求は究極的に、量がゼロの状態、言い換えれば死の状態をめざしていることになる。】

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  今日、自分はPCR検査用の唾液を容器に入れましたが、皆さん2cc出すのに、みかんを見たり(笑)、大変そうでしたが、いざ自分がやるとなると、やっぱり大変でした。

 周囲ではまた感染者が増えてきているので、もう誰が感染してもおかしくないのかも知れませんが、何とか踏ん張りたいし、踏ん張りどころですね。まあ、感染者が出たら出たらで対処していくしかないですが。

 

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  今日は年に1度の全室のエアコンや浴室の暖房・換気の大掃除でした。PCR検査もあり、看護師と主任が忙しそうでした。

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  利用者さんと桜を見に行ったら人が沢山いて、降りることが出来ず、車窓から見て帰りました。ソメイヨシノは後2~3日くらいで満開でしょうか?

 

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 その前に、シデコブシを見に行ったらこちらも人が沢山......。兵庫県からシデコブシを描きに来ておられる方がいました。

 下記は昨日の続きですが、樫村愛子先生の3冊目『臨床心理学ならこう考える』も、ネオリベベラズムのことを扱っています。やっとシニファンを調べなくてもよくなりました(笑)。社会学からラカンに入るなんて思ってもみませんでしたが........。

日常に浸透するネオリベラリズム由来の価値観

現在普及している意味でのこうした語彙はすべて「ネオリベラリズム新自由主義)」という理念体系に由来するものであるが、要するに、このネオリベラリズムという古くて(起源は第一次大戦ごろにさかのぼる)あたらしい(支配的政策として普及するのは1970年代以降である)思想とそれに由来するさまざまな価値観がわたしたちの日常をも支配するようになったのである。

おおよそ、日常に浸透したネオリベリズム(これを「日常的ネオリベラリズム」という)の教えるところは、こうである。

「民営化」すれば無駄もなくなり生産性もあがり、人々も働く意欲をもつなど、いいことづくめである。なぜかというと、「民間企業」は市場原理にのっとって動いているわけで、効率性を至上価値とする市場原理にムダはありえない。したがって、すべてを「民間企業」のように運営すればまちがいないのだ、と。

ネオリベラリズムは資本主義的でないものを根絶する傾向をもつ

ネオリベラリズムはいつも、そうした反応があった場合、つねに攻撃的態度をとってきた。

守旧派」とか「抵抗勢力」といったレッテルが、「敵」に対してふりまわされるのは、日本だけではない。

たとえば、ネオリベラリズムの理念が最初に実地で展開されたのは南米のチリであるが、そのきっかけはクーデターであった。選挙を通して社会主義政権が成立した直後、アメリカ合衆国のバックアップによって、クーデターでその生まれたばかりの政権は転覆される。その後、軍人アウグスト・ピノチェトを指導者とする新政権は、独裁政治をおこない、そのもとでチリは、米国のエリートと米国で教育を受けた現地エリートのネオリベラルたちによって、政策実現のいわば実験場と化してきた。

ネオリベラリズムの総帥フリードリヒ・ハイエクは、その独裁政権を擁護し、その体制のもたらす「個人的自由」を称揚しつづけた。おびただしい人間が誘拐され、拷問され、虐殺されていたにもかかわらずである。

ここで確認しなければならないのは、ネオリベラリズムとは経済学的教義であり、あるべき市場や経済のあり方を指し示す理念であるのではなく、この世界総体の再構築をもくろむ政治的プロジェクトであるということである。

そしてそれは、「社会」の領域に根ざす人間的領域からの反発、すなわち資本主義的原則に順応しない慣行、規則、制度、あるいはそれとは異なる理念に由来する行動などなどを、すべて根絶する傾向をもつ。

いまネオリベラリズムは、独裁を口にしてはばからないブラジル大統領ジャイール・ボルソナロをそのひとつの代表的な顔としてもっているが、そのような「権威主義的」で「反民主主義的」要素は、もともとその教義に内在する傾向なのである。

グレーバーの有名な言葉に「資本主義を世界でただひとつの可能なる経済システムであるようにひとにおもわせる選択と、資本主義を実際にもっと生命力のある経済システムにしようとする選択肢があるようなとき、ネオリベラリズムはつねに前者を選ぼうとしてきた」というものがあるが、これはこのようなネオリベラリズムの性格をよく表現している。

ネオリベラリズムは、たとえみずからの守護する資本主義を多少なりとも犠牲にしても、みずからへの抵抗をつぶすほうを選ぶのである。

サッチャーの言葉である「TINA(There Is No Alternative)」、つまり「オルタナティヴは存在しない」(この道しかない)は、ネオリベラリズムイデオロギーとしてよく引き合いにだされるが、それはたんにネオリベラリズムを強硬に押しつけるさいのレトリックにとどまるものではない。

資本主義に支配されたもの以外の世界の可能性を匂わせるようなすべてのものを抹殺することは、ネオリベラリズムに内在する衝動なのである。

ネオリベラリズムと官僚制との相性のよさは、そこにも理由のひとつがある。官僚制とは、なによりもまず人間の想像力への攻撃だからである。


 この辺も社会学の本からまた学ぶことになるとは思いませんでした。もしかしたら、自分が目指しているのは、社会学なのかな?と、思ってしまいました。

 一つのことを真剣に考えていたら、行きつくところまで行くと、それから派生してどんどんアイディアが出てきますが、それは本当に考え続けることでしか得られないものですよね?
 ロイトの快原理は通常、次のように解釈される傾向があった。欲動エネルギーの量の水準が高い場合には不快が生じ、逆に低い場合は快が生じると。

 際、「草案」においても、この解釈を思わせる箇所は確かに存在する。例えば、既述した「一次的な慣性傾向」という表現がそれである。

 れでは、心的装置にとって最初の状態とは何か。心的装置は生命体である。さらに、生命体の最初の状態とは何か。言うまでもなく永遠の生命体が存在しえない以上、生命体の最初の状態は、生きていない状態すなわち死の状態である。

 れは、量がまったく流動しない静止状態である。もしこの解釈が正しいとすれば、快の追求は究極的に、量がゼロの状態、言い換えれば死の状態をめざしていることになる。

 ロイトは後年、このような「一次的な慣性傾向」を、一切の煩いを脱した状態を示す仏教用語を借用して、「涅槃原理」と呼んだ。