今日はゆうちゃんの、何回目かの誕生日!人生100年の時代!歳は関係ない!
ケーキはいつもボランティアさんが、豪華でとっても美味しい(自分は中々口にすることはありませんがw今日はカットしているだけでもいい香りが.....)作ってくれます。
皆さん美味しそうにお寿司とケーキを食べておられました!コロナ禍の中、席は遠いですが......。
夜勤の休憩時に外に出たら、今日もきれいなお月様が出ていました!
記事のアップもずっと続き(笑)。でも、やっぱり下記のようなことが引っ掛かってしまいますね........。
ケア労働の逆説
もちろん、仕事の中断を余儀なくされている職種のなかには、その再開が望まれるものも多い。けれどもたぶん、ないほうがよい仕事のほうがずっと多いだろう──特に、気候変動による全面的破局を避けようと望むのであれば。
(配下に自宅勤務を許可するよりも光り輝くオフィス・タワーで指図をしたいという企業官僚たちの虚栄心を満足させるだけのために、どれだけの二酸化炭素が大気中に撒き散らされ、どれだけの生物種が永遠に失われることになるのか、考えてみたほうがいい。)
もしもこうしたことがまったく当たり前のようには思われず、経済再始動の論理が何らかの意味を持っているように聞こえるのだとしたら、それはわたしたちが、「生産性」という古き20世紀の規則に従って経済を考えるようにと教えられてきたからだ。
現在、言うまでもなく、多くの工場が(すべてではないけれど)閉まっている。冷蔵庫や革ジャケット、プリンターのカートリッジや洗剤などの在庫は、いずれ補充されなければならない。けれども、わたしたちが今回の危機を通して深く実感することになったのは、今日では、最も必須の労働の大部分は、古典的な意味で「生産的」なものとは言えない──要するに、それまで存在していなかった物理的対象をつくり出すことと結びついたものではなくなっている、ということだ。
今日の必須の仕事(エッセンシャル・ワーク)のほとんどは、何らかの種類のケア労働であることが明らかになった。他の人びとの世話をし、病人を看護し、生徒に教える仕事。物の移動や修理、清掃や整備に関わる仕事。人間以外の生き物が繁栄していけるための環境づくりに取り組む仕事。
こうして人びとは、現在のわたしたちの報酬システムが、とんでもなくおかしなものだということに気づき始めている。あるひとの仕事は、それが明らかに他の存在をケアし、利益をもたらしさえするようなものであればあるほど、見返りが少なくなっていくのだから。
下記は、自分が学んでいるところの授業の発表?かな?井坂聡先生のプロデュース・プロジェクト。自分は土曜日の対面の授業がコロナ禍で受けられず、ロゴの制作だけ依頼され、自分の能力だけではできなかったので(笑)、ウェブデザイナーさんに助けて頂きました!ロゴの制作は『アトリエ・カーグ』にさせて頂きました。院生が書いた脚本物が2本ありますので、そちらも是非、ご高覧下さい!自分は2期生さんたちとこの授業を受けますが、今度は音楽で参加させていただきたいですね!
それと、自分なら0番目のSDGsを作るかな?本当に達成可能なのか?今ここで起きていることから、過去や未来に起こったことや起こることを吟味して、大風呂敷を広げていないか?いかんいかん(笑)、SDGsに溺れたふりして何とか卒業(出来たらのはなしw)!
この本は社会学の本だったよな~と、またまた思ってしまいました。なんか逆に分かりやすくないですか?精神分析関連の本よりも!
〜意識の成立には、量から質への転換が必要である。そして、その転換には、時間的な経過による量の変化が関わっている。
さらに、快・不快は「備給の絶対量」ではなく、「単位時間内における備給量の変化」(強度)によって生じる。〜
〜「心理学草案」・『快原理の彼岸』・「マゾヒズムの経済論的問題」の著者であるフロイトは、何にこだわっていたのであろうか。それは、量と、その量の質的側面(奇妙な表現だが)との違いである。
そのことを最も端的に表現しているのが、「刺激量の変化・増大・低減の描く時間的経過」あるいは「単位時間内における備給量の変化」という言葉である。
この言葉を文字通り真面目に受け取るならば、量の質的側面とは、量の変化速度のことであろう。〜