うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、田原市でワクチン集団接種の訓練と、【そもそも、深刻な相談やトラウマティックな出来事を連日のように聴きながら、正気を保ち、平穏な日常が続いていくと信じることは、そう容易なことではない。】

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 今日は日勤で、送迎担当ではなかったので、現場に入ることが出来ました。ドライブにいったり、男子だけすろーの湯に行ったり、アイスクリームを食べたり、皆さんと沢山触れ合うことが出来ました。ギターもいっぱい弾きました!

 

 下記は地元でもいよいよ始まりますね! 本当に効果があれば嬉しいです!

 

 下記は昨日の続きですが、現場の職員さんは思うところがあるようでした。現場にいる時は無心ですが、休みだったり、ほっと一息ついた時に色々考えてしまいます。また、現場に入れば無心になりますが(笑)、毎日その繰り返しかも知れませんね。

エモディディと自己の真正性
感情労働者としてのセラピスト、エモディディしてのセラピー
 こまでの議論を踏まえ、感情の生産と消費という観点からセラピーや相談援助について考える。

 ず、感情労働の観点から相談援助職について見た場合、非常に高度で繊細な感情労働を遂行する存在とみなすことができる。

 とえば他者クライエントの感情転移について慎重に扱いつつ自らの逆転移にも自覚的にセラピーを進めていくことや、個人的な価値観や考えはひとまず横に置き、虚心坦懐にクライエントの話に耳を傾けて共感的に理解すること、自分の発話がクライエントのその後の行動をどのように方向付けるのかを吟味しながら語りかけること、スーパービジョンを通して自分の中の囚われや偏りについて点検し、ケースへの対応ん含めて何かしらの「気づき」を得ること、面接の時間と場所を区切ることでクライエントとの関係性に一定の線を引くこと、室内のインテリアや机の上や椅子の配置に気を配り、話を引き出しやすい雰囲気を演出すること等々、セラピストは自己コントロールとセラピーを行う環境に関する数々の作業を丁寧に積み重ねることで、専門職としての「専門性」を担保し、クライエントとのラポールの形成や良い援助を実現しようとしている。

 もそも、深刻な相談やトラウマティックな出来事を連日のように聴きながら、正気を保ち、平穏な日常が続いていくと信じることは、そう容易なことではない。

 の中や人間の暗部に遭遇することの多いセラピストにとって、クライエントに共感的でありながら決して巻き込まれないという態度の保持は、専門明らかにとして適切な援助を提供するための基本事項であるとともに自分を守る術でもある。 

 のような感情労働を通して提供されるセラピーの場を、クライエントはどのように「消費」するのだろうか。もちろん、日本の健康保険制度のもとに医療行為として診療報酬がしはらわれる精神療法に限って言えば、それは商品とは言えず、むしろ社会主義的な提供のされ方をしている。とはいえ、提供されるセラピーはセラピストの労働によって提供される生産物であることに変わりはない。

 ラピストの感情労働とそれによって提供されるセラピーという装置、そしてそれを「消費」するクライエントの感情は、どのようにネットワーク化され、エモディディ化するのだろうか。また、その時、感情や自己の真正性とは何を意味するのだろうか。

 ルーズによれば「合理的かつエモーショナルな行為者」は、人間関係の数量化や効果測定、その関係性からどの程度の心理的報酬や成果を得られるのかという計算に長ける一方で、それと同程度に感情的な経験をも志向している(ibid .[p.5])。

 れはセラピーでの専門家ークライエント関係においても再現される特徴であろう。エモディディという観点は、医療社会学における「人間の条件の医療化」論(Conrad,2007)とあわせて、今後のセラピーに関する経験的な研究の展開と現代人の感情や自己の真正性に関する考察を深める際の参照点として示唆に富む。