ヴァレンタインのクッキー2と、友人からはちみつと、ことしのM&Aを展望する ~コロナ禍で企業の次の一手は~と、財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とすると、【「作者は決して語らない」】
カーグに参加できなかった方々から、写真が送られてきました!
皆さん素敵すぎます!
季節を感じますね!
昨日、すろーの湯で遊びました(笑)!
秋学期に勉強したことですが、事業継承は自分達にも大きな問題なので、事業だけでなく自分達のナレッジやスキルも含めて買っていただけるように頑張ります。
角田氏
日本企業が、コロナ時代を“生き延びる”ために、再編の動きが起きる。ただ、単一の業界だけでビジネスが成り立たなくなっているのも事実だ。例えば自動車メーカーが地図サービスの会社を買収した例があったが、業界をまたぐM&Aが増えてくるだろう。
下記は、事業を続けていると先日も書かせて頂いたように、何を残したいか?になってきます。でも、人を遺すと言うのは一番難しいことですね.......。だから一番上でしょうが.......。
「手取り足取り何もかも答えを出すのは、果たしていいのだろうか。やっぱり自分で考える、自分で答えを見つける。やっぱり耐える、我慢、こういうのができると更に一段と育つ。楽をして、いい結果は得られません」
自分たちも現場では、チェスのプレイヤーなのかもしれませんね?その方の流れに沿いながら、道が外れないようにさせて頂くのが仕事なので、恣意的には中々行きませんから。
第ニ章 装置を作る
身体の欠如と行動としてのディスクール
〜「思考に対する《軽蔑》」とはどういうことか。定型で詩を書き続けたヴァレリーにとってこれは重要な点であり、後の議論とも関わるのでここで簡単に補足しておこう。
ヴァレリーによれば、私たちの日常的な思考は言語に大きく支配されており、言語は思考を形づくる「主要な作者の一人」(CI,1091)とさえ言える。
しかし韻文で書くことは、韻や響きといった条件のため通常の語順を倒置したり、意味的にはつながらない語どうしを音によって重ねたり、通常の言語に対して「小さなクー・デター」(CI,416)を起こすものである。
作者も読者も、自動作用に任せるようにしては思考できない。とりわけ、「高貴」なアレクサンドランの場合、それが思考からとらせる距離によって、私たちの思考の自由どは抑制される。
すでにみたように、装置としての詩は「拘束」を伴うがヴァレリーは、詩作においても、まさにこの不自由さにこそ可能性を見出す。
詩において「私はもはや私の言いたいことが言えない」(E1,1356)ことこそが重要なのである。詩がチェスのゲームであるならば作者はそのプレイヤーであるが、それは作者が全てを支配するということを意味するわけではない。
「作者は決して語らない」(C2,1207)。チェスにおいてプレイヤーがゲームの展開に対するリアクションとしてしか手を打つことができないように、またルールによって恣意的な駒の動きが禁じられているように、作者も、詩の運動と規則に従ってしか語を置くことはできない。〜