フキノトウが転がっていたので(笑)、うたたね地蔵さんにお供えしました。コロナも自粛すれば減り、解除したら増えるの繰り返しですね……。早い終息を今日もお願いしました。
午前は海を歩いたり
菜の花畑にいったりしました!
梅も日当たりの良い場所は、満開のところもありました!
お昼からは男子だけすろーの湯に行きました。コロナ禍でもここだけは今のところ皆さんには楽園です。相変わらず一人ずつの入浴ですが........。
下記は少し前の記事ですが、まだ頭の中に残っています。一昨年、自分のアイデンティティを探しに生まれ故郷に幾度か足を運びましたが、まだはっきりわからないまま、その件については保留にしたままコロナ禍に......。アイデンティティは本当に必要で、感じることが可能なのか?と、自分に問うてみても全く答えが出ませんし、ヴァレリーの詩ように、心が自然に動かされるものなのか?
そのマクルーハンは1977年に、現在のこうした状況を予言するかのように、「フロンティアで生きる者はアイデンティティーを失い、誰でもなくなってタフに生きなくてはならなくなる。誰かであることを示さなくてはならなくなり、非常に暴力的になる。人はアイデンティティーを失うと暴力に訴えるのだ」とも言っている。
詩のリズムと言うのは分かるような分からないような......。でも自分にとっての音楽は血が騒ぐし(笑)、筋肉組織も刺激されている感じがします。自分は曲を作る時に詩が先でないと書けない人なので、詩が書けなくなってからは、曲も全然書けていません。
食欲が落ちた方に、その方のリズムに合った曲を弾かせて頂くと食欲が出たり、落ち着かれたりすることもあるので、リズムは大事な(生活のリズムも含めて)ものなのでしょうね?そんな時にはその方の中に深く入っている感じもします。
詩は、詩の読者に魂の従順、従って身体は棄権を要求するような、あやまった現実を課したりはしない。詩は存在全体に広がらねばならない。
つまり詩はリズムによって読者の筋肉組織を刺激し、それが活動全体を高揚させる読者の言語能力を解放ないし解き放ち、深いところで読者の存在全体を秩序づけるのである。
というのも詩は、人間がその力のどれをも遊ばせておくことのない強い感情によって捉えられたときに現れる、ひとりの生きる人間の統一と調和、並外れた統一を誘発ないし再び作ることを目指すからだ。(E1,1374-1375)