うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、なぜ日本のメディアは「支離滅裂な欧州のコロナ対応」を絶賛するのかと、世界中で頻発する「東アジア人差別」を、なぜ日本人は問題にしないのかと、【イールズは、感情労働論とは異なる立場から、消費社会における感情の消費についてアプローチしている。それは消費者の感情を巻き込む形で成立する「感情商品=エモディディ(emodity:emotionalcommodity)」の消費である。】

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 今日は長距離の送迎が朝夕にあり、あまり現場に入ることが出来ませんでしたが、少しだけドライブと入浴介助をさせて頂きました。

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 山に行ったついでに花を少し頂きました。水仙はうたたね駐車場で咲いているものです。椿が開いてくれば華やかになりそうですね!

 

 下記の二つは本当にそう思います。自画自賛は頂けませんが、せめて公平に、普通に報道が出来ないものでしょうか?今の国会を見ていてもなんか税金を払うのがばからしくなるのは自分だけでしょうか?


 下記は昨日の本の別の方の物ですが、自分達にも当てはまることです。『自らの感情に働きかけ、それを製造物として差し出すことは、感情労働従事者に特有の疲弊をもたらす。』は、本当にそうですね。バーンアウトしないために、仕事と割り切ってやるしかないのですが、これだけやってもその反応?と思うことが多々あるので(立場の違いによることは皆さん承知していますが)、もうええわ!と思ってしまう反面、皆さん現場に出たらケアさせて頂こうと自然に頑張ってしまっています。本当にお疲れ様です!

感情の消費
感情資本主義社会における自己の真正性
山田洋子
感情という商品
感情の生産と消費
 現代社会において、消費されるのはモノだけではない。イールズによれば、人間の感情も消費される。では、それは一体どのようにしてか。この点について考えるにあたり、まずは比較対象としてA.R.ホックシールド感情労働論について見ておきたい。消費社会の進行や第三次産業の増大とともに、「感情労働(emotionlabor)」(Hochschild,1983)に従事する者が増加するが、広義のサービス業や対人相談援助職等の感情労働に携わる人々は、自らの感情をマネジメントし、その場にふさわしい感情ーー優しさ、親しみやすさ、楽しさ、明るさ、親身であること、つかず離れずの距離感などーーを顧客に提供することで賃金を得ている。うわべの取り繕い(「表層演技」)や感情自体の変更(「深層演技」)を巧みに使い分けながら、彼ら、彼女らは自らの感情を成形加工し、顧客の前に商品として差し出す。
 自らの感情に働きかけ、それを製造物として差し出すことは、感情労働従事者に特有の疲弊をもたらす。一体、この感情は誰のものか?私が本当に感じている感情なのか、それとも組織の命令によって感じること・演じることを余儀なくされたものなのか?
 これらは感情という商品の生産と疎外、「管理される心」とその真正性というテーマである。ホックシールド感情労働論の力点は、感情の生産にあった。ただ、思えば当然のことながら、それが生産されるということは、裏返せば、それを消費する人がいるということである。だが、ホックシールド感情労働論は感情の消費について多くを語っていない。現代人は、適切にマネジメントされ、商品として差し出された感情を、どのように消費しているのだろうか。人間同士の関係性が商品化される時、そこに立ち上がる関係性は、金銭を介したもの・職務上のものであっても、幾ばくかの真実らしさを含むものだろうか。
 イールズは、感情労働論とは異なる立場から、消費社会における感情の消費についてアプローチしている。それは消費者の感情を巻き込む形で成立する「感情商品=エモディディ(emodity:emotionalcommodity)」の消費である。ホックシールド的な感情労働論が労働者による感情の生産に力点を置いていたとすれば、イールズは、消費者の感情をその一部分として包摂するような商品が現代社会に多く見られ、市場は理想的自己や感情に関する文化的テンプレートを経済的営為へ変質させるという。