今年はと、グループ化と、【言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。】
なんか今年は、イベントに対して実感が持てずに終わってしまいそうですね。クリスマスツリーを見ていても、祈りしか出てきません……
IT音痴には、大学院の講義で、ちょっとしたことて躓きます(笑)。昨日も直前にウェブデザイナーさんに電話で助けて頂きました!ありがとうございました! 講義も中々難しい講義でした。
下記は中々考えさせられました。信頼を得ることが出来ないなら、事業は成り立ちませんし、万が一出来たとしても長続きはしませんね。
そのうえでサッチャーは、信頼を築けるかどうかは巧みな広報活動ではなく、明快な理念、優れた戦略、そして決然とした行動によるものだと主張した。
手の倫理に入らせて頂きました。平気で無意識にさわると言っていた自分が恥ずかしくなりました……。
手の倫理
序
日本語には、触覚に関する二つの動詞があります。
1·さわる
2·ふれる〜
〜哲学の立場からこの違いに注目したのが、坂部恵です。坂部は、その違いをこんなふうに論じています。
愛する人の体にふれることと、単にたとえば電車のなかで痴漢か見ず知らずの異性の体にさわることとは、いうまでもなく同じ位相における体験ないし行動ではない。
一言でいえば、ふれるという体験にある相互嵌入の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいなちにふれ合い、参入するという契機が、さわるということの場合には抜け落ちて、ここでは内ー外、自ー他、受動ー能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。
「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。一言で言えば、これが坂部の主張です。
言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。
そこにいのちをいつくしむようなかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。
逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりする時には、そかには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。〜