今日の散歩と、【知覚的要素を伴わない感情というものはありませんし、情動を伴わない認知というものも決してありません。】
今日は、金曜日の散歩にあたり、嬉しかったです!
約9km歩き、約3km走りました!ほどよい疲れで、自律神経が整った気がしています。
ポリヴェーガル理論入門を読ませて頂いていると、自律神経に詳しくなりそうですが、突き詰めれば突き詰めるほど、訳が分からなくなってしまいますが、それを乗り越えないと、ユングが言うように、今、目の前にある物をきちんと片づけないとまた、同じ問題がいつかはふりかかってくる。というのを思い出すので(笑)、なるべく今勉強しているものは、今のうちに自分が出来る範囲でしかできませんが、そこまでは頑張ろうと思って、勉強させて頂いています。ギターも不器用なので半年かかってやっと弾けそうな曲を今、愚直に(笑)、練習しています。ベスランとメロディが美しい曲ですが、その難所が未だ流れるように弾けないので(笑)、頑張るしかありません。
現場でも全く同じで、不器用なので、本を読み続け(周囲にそれに特化した方がいないので....)、第一人者の実践を読ませて頂きます。
昨夜、アップしようとちょっとギターを弾いていたら、アップするのを忘れていたので、書き換えてのアップです(笑)。
今日も、ポリヴェーガル理論にすっぽりあてはまるようなことがあり、最近は良書に恵まれて感謝しています。
ただ、勘違いしてほしくないのは、安心安全な絆を作るのは“優しい”だけでは無理だと言う事です。暴言や暴力を容認しているのか?と言われそうですが(笑)、そんなことはしてもいません。毅然とした態度を見せないと、お互いに理解し合えない状況もあることが、少なくないということもあるということです。どちらかだけが良いというのは、不可能だと思われますし、もしそれが出来たとしても、長続きはしません。
新しい、ポリヴェーガル理論しか知らなくて(古典的な精神分析を知らない)、それだけ当てはめると、すっぽり入っても、下記の様なことは、きちんと古典的なものを理解していないと、本当に理解できているかどうか、疑問に感じるのは自分だけでしょうか?
机上の理論やロビー活動ばかりしている輩を、自分は認めていないので(笑)、そういう輩が偉そうに話していても、自分の頭には入って来ません。
『エピソード記憶とは、実生活で起こる現実の生活体験の記憶であるとTulving(1972)は述べています。』
現場で働いて居られる方を、どうやったら良い位置につけられるのか?が今の自分の仕事のように感じています。
まあ、勝手にすが(笑)
自己−不変要素の統合
発動性、一貫性、情動性、連続性ーーこれらはいかにしてオーガナイゼーションを促す主観的見通しへと統合されるのでしょうか。この質問に対し、生の体験のさまざまな特徴を統合するシステム、あるいは過程は記憶であると答えることができるかもしれません。現実における生の体験は、それが終わるまでは完全な構造をもちませんが、その構造はただちに記憶として再構成されます。この意味では、生の体験と記憶に残る体験の構造とは、それほど違ってはいないと言えましょう。そうしてみると、生の体験に潜む異なった自己−不変要素がいかに統合されるかを理解するには、エピソード記憶episodic memoryと呼ばれるものを詳しく見てみることが重要となってきます。 エピソード記憶とは、実生活で起こる現実の生活体験の記憶であるとTulving(1972)は述べています。〜
〜基本となる記憶の単一化はエピソードです。それは些細ながら、一貫性をもつ生の体験が、ひとまとまりとなったものです。エピソードとはどんなものでも、ここで正確に規定することはできません。それはこの分野で未解決な問題の1つです。しかし、1つのエピソードはそれよりもさらに小さな因子や属性から成ると一般にいわれています。ここでいう属性とは、感覚であり、知覚であり、動作であり、また思考、情動、目標でもあります。それらは、一定の時間的、もしくは因果的関係性の中で起こり、単一で一貫性をもった体験のエピソードを構成します。エピソードをどう定義するかにもよりますが、どうやってもエピソードとならない生の体験などありません。なぜならば、情動、認知、行為を伴わない知覚や感覚というものは、あったとしてもまれだからです。知覚的要素を伴わない感情というものはありませんし、情動を伴わない認知というものも決してありません。その情動は単なる興味に過ぎないかもしれませんが、エピソードは与えられた物理的動機づけ状況の中で起こります。そしてそこでのことは、時間に沿って進行し、因果関係をもつことが前提となっているか、あるいは少なくとも期待されています。〜