うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

万博アニキからの差し入れと、【WinnicottやMahlerに代表される理論では、母親と共にあるさまざまな重要な体験は、乳児が自己と他者を適切に分化できないという仮定を出発点としています。自己/他者融和こそ、乳児が常に立ち戻る基本状態です。】


 昨日、突然、うたたねに、万博アニキが来てくれ、差し入れと言って、海苔をくれましたが、お金持ちなので(笑)、それだけ〜?と笑いました。
 年末年始は、2020年に万博があるドバイに、視察がてら行くそうです。羨ましい限りです......。
自分は、今年の年末年始は休めないので、来週お休みを頂き、東京に行く予定ですが、本当に行けるでしょうか(笑)。
 まあ、忙しい内が華ですが。


 今日は休みでしたが、年末チャリティーを覗きに行って、新しい掛け軸を掛けに行ったり、バンドの機材を乗せに行ったり、ジムで体を追い込んだりしていたら、あっという間に一日が過ぎてしまいました。
 明日は早いので、もう寝ます(笑)。




 

 下記は、利用者さんだけでなく、職員さんにも当てはまる時があります。今日メールをくれた職員さんが、そんな感じの事を言ってくれました。職員さん達も、言うか言わないだけで、色々な問題を抱えておられる場合があるので、自分が出来る範囲でフォローできたら(自分がフォローして頂くときもあります)いいなと思っています。
 元々、自分の支援を分かり易い言葉で表現したいと思ったので、精神分析を中心に臨床心理学の本を読み始めましたが、勉強不足が露呈してしまったので(笑)、ひたすら、学習させて頂いています。
 ただ、一つ思うのは、ステレオタイプになってはいけないことだと思います。著名な先生が、こういっていたからこうするとかは、利用者さん達の特性を見極めた上でないといけないと思います。
 自分など社会的地位も、学歴もない人間が言ってもしかたがないのは重々理解はしていますが(笑)、個人的には、フロイトはその時代の、フロイトの周囲の環境・文化に染められ、苦しめられた方々に対するやり方であり、その他の著名な先生方もそうだと思いますので、古典的な物もしっかりと勉強して、最新のものを取り入れないと、表面的にしか、おそらく理解が出来ていない気もします。

 『交流し合いながら他者と共にあるという感覚は、社交(社会)体験のうち、最も力強いものの1つと言えるかもしれません。さらに、実際にはそこにいない誰かと共にあると思える感覚もまた、同じくらい心強いものだと言えましょう。その場にいない人が、力強く、すぐにも触れられそうな存在として感じられることもあれば、逆に、些細な記憶痕跡しか残っていない、無言の抽象としてしか感じられないこともあります。』


 明日はカーグの日です!ポインセチアを描くようです。
先程、機材など載せました!







第5章 中核自己感:2 他者と共にある自己
〜他者と共にあるということの体験は、さまざまです。たとえば、融合、融和、安全天国、安全基地、ホゥルディング、共生状態、自己−対象、移行対象、備給を受けた対象など、臨床上、幅広く用いられている概念がこれにあたります。 交流し合いながら他者と共にあるという感覚は、社交(社会)体験のうち、最も力強いものの1つと言えるかもしれません。さらに、実際にはそこにいない誰かと共にあると思える感覚もまた、同じくらい心強いものだと言えましょう。その場にいない人が、力強く、すぐにも触れられそうな存在として感じられることもあれば、逆に、些細な記憶痕跡しか残っていない、無言の抽象としてしか感じられないこともあります。Freud(1917)が指摘したように、喪の仕事の過程において、死者はこんなふうであったろうと感じられるままの存在として、残された人の心の中にさまざまな形で具象化され直します。恋に落ちる場合も同じです。恋人同士はただわけもなく、お互いに夢中になっているわけではありません。恋する相手は、片時としてそばを離れない存在として感じられるばかりか、自分のすることほとんどすべてを変えてしまう予感として感じられることも多いのです。恋人は自分の世界に対する自覚を高め、一挙一動を磨き上げ、洗練してくれるのです。では、そうした体験は、この本の枠組みの中でどう説明されるのでしょうか。
 WinnicottやMahlerに代表される理論では、母親と共にあるさまざまな重要な体験は、乳児が自己と他者を適切に分化できないという仮定を出発点としています。自己/他者融和こそ、乳児が常に立ち戻る基本状態です。この未分化状態が平衡を保っており、そこから自己と他者がそれぞれ徐々に出現してくるのです。この観点からみれば、乳児はある意味で、ことごとく社交的な存在です。主観的に、“私達”は“私たち”なのですから。乳児は、自己と他者を分化させなくても、完全な社交性をもつに至るのです。 これに対し、ここで述べる発達簿では、中核自己感と中核他者感が、かなり早期から形成されると強調します。つまり、他の理論ではまだ遷延化する自己/他者未分化と言われている時期にそれらが始まるとするのです。しかもこの見解では、他者と共にある体験を、分化の失敗という受身的なものとしてではなく、統合という、むしろ能動的な行為とみなします。もし私たちが、共にあるという他のを、個別の自己と個別の他者の能動的な統合の結果ととらえるなら、他者と共にあるという主観的社交的感覚は、どうとらえたらいいのでしょうか。〜