うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

本が来ましたと、【調律は感情共鳴の体験を、自動的に他の表現型へと変換し、必ずしも共感的認識や共感的対応へとは進行しません。調律それ自体、独立した情動交流法なのです。】


 ベティ・ジョセフの本が早、きました。
さらっと読んでも、凄さが伝わって来ました。現在の本は、ベティ・ジョセフのワークショップの本も凄いですが、そのもとになる論文集なので、本当はこちらから読んだ方が良かったのかも知れませんが、無知なので、ベティ・ジョセフという名も知りませんでした。

 銀行さんに相談事があって、用事が済んで事務所に戻ろうとしたら、おっちゃん!って声をかけられ、振り向いたら以前うたたねに住まれていた方でした。ちょうどあれから1年経ちましたと言われましたが、自分には記憶がなく、なんだった?って聞いたら深夜に電話があり、調子が悪くてどうしたらいい?って言われたので、飛び起きてその方の自宅に行ったことでした。1年って早いし、よく日にちまで覚えていますね。あの時は、かかりつけの病院に電話しても取り合ってもらえず、取り敢えず話をして、暖かい物を摂って頂き、落ち着いて頂きました。
 毎日色々あるので(笑)、直ぐに忘れてしまいます。





 今日も早めに出て、本を読ませて頂きましたが、アップはスターンです。スターンを読んでから、3冊目の本を読んでいますが、現場にいると、スターンが言わんとしていることを、よく思い出します。


 日本でも、受容から共感へと言われて久しいですが、その共感という言葉の真の意味を自分はきちんと見る事もなく、ただ言葉の印象だけで勝手に解釈してしまっていたんだと、思わされた箇所でした。情動調律と共感を比較して説明してくれています。




  〜最後は“共感”に関する問題です。調律は、一般に共感と言われるものに十分近いでしょうか。答えは否です。調律は意識されることなく、ほとんど自動的に起こるのに対し、共感は、知的過程を媒介としていると言えましょう。一般に共感と言われるものは、少なくとも4つの異なる一連の過程から成っています。
(1)感情状態の共鳴
(2)感情共鳴の体験からの共感的認識の抽出
(3)抽出された共感的認識の共感的対応への統合
(4)一過性の役割同化。


 (2)(3)に含まれるような認識的過程が、共感には欠かせません(Schaffer 1968;Hoffman 1978;Ornstein 1979;Basch 193;Demos 1984)。(とはいえ、他の人であることがどんなふうか認知的に想像することは、少なくとも、それが感情共鳴によって点火されるのでなければ、役割を巧みに演じているだけのことであって、共感ではありません)。つまり情動調律は、共感同様、はじめに感情共鳴という過程を含みます(Hoffman 1978)。どちらも感情共鳴なしには起こり得ないのです。多くの精神分析学者は、この定式化に関して同意見です(Basch 1983)。ところが情動調律は、共感同様、感情共鳴から始まるものの、違った展開を示します。調律は感情共鳴の体験を、自動的に他の表現型へと変換し、必ずしも共感的認識や共感的対応へとは進行しません。調律それ自体、独立した情動交流法なのです。