うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

世間はLEDに(笑)と、【Piagetの提唱した知覚運動図式という概念は、まさにこのこと(あるいはそれ以上)を意味しています。】


 昨日、ショートの居室の照明が、つかなくなったので、器具を買って来てほしいと頼まれ、量販店さん2軒と、ホームセンターさん1軒とリサイクルショップ1軒を回りましたが、丸い蛍光灯をつけるタイプが全くなく、びっくりしました!
 自分だけ、時代に取り残された(笑)感が、半端なく(笑)、思わず自分を笑ってしまいました。
日々、読書とギターとストレッチと、完全にアナログの事しかやっていないので、違和感も半端なかったです。10年は持つとの事ですが。きれたら、器具ごと購入しないといけないのでしょうか?それすら分からず買ってしまいました(笑)ので、帰宅してからも笑いが止まりませんでした。





 今日は、休みを頂いていましたが、お世話になった方々へお歳暮を親分と配って来ました。一番遠い所は二川でした。
現場に戻り、ファミマに行くと、かおちゃんが、主任支援員さんと紅茶を買っていました。今回は、紅茶のパッケージにミッキーがついていなかったので二人で探しておられたとのこと。なくなって残念でした......。



 本は昼食時少しだけ読みました。
 アップは、スターンの復習がまだまだ続きます。
 下記は、支援には、魔法なんてないよ!って言ってくれている感じがしました。
担当者会議なんかで、自分の時には、自分の所では何もなかったという発言をよく聴きますが、本当にそうでしょうか?よく見ていないだけではないのでしょうか?毎日地道に、的を得た支援を続けることができた場合にだけ、神様が微笑んで下さるように感じるのは、自分だけでしょうか?
『自己に体験に連続性がなければ、中核自己感はつかの間の体験となってしまうでしょう。』


 後は、またまた、リトル先生の『まずは、身体記憶』と言う言葉が当てはまってしまいました。







自己の歴史(記憶)
 自己に体験に連続性がなければ、中核自己感はつかの間の体験となってしまうでしょう。連続性とか歴史性というものは、自己や他者との相互交流を、自己や他者との関係性から区別するためのきわめて重要な要素です(Hinde 1979)。Winnicottが“存在し続けることgoing on being”(1958)という感覚で言わんとしているのも、この要素です。この種の連続性に必要な乳児の能力が記憶です。乳児の記憶、中核自己−歴史、つまり自己の時間的連続性を維持する作業に耐え得るでしょうか。乳児はまたその他の重要な中核自己−不変要素を形成する3種の異なった体験(発動性、一貫性、情動)を覚えていられるでしょうか。生後2〜7ヵ月のには、発動性の体験としての“運動記憶”、一貫性の体験としての“知覚記憶”、情動体験としての“情動記憶”をもつのでしょうか。発動性の問題には、主に運動プラン、行為そしてその結果が含まれます。長年、乳児は優れた運動記憶をもつに違いないと想定されてきました。Bruner(1969)は、そのような記憶を“言葉なき記憶”と呼びました。自転車の乗り方、ボールの投げ方、指の吸い方などがこれにあたります。それは随意筋のパターンやその協調性として備わった記憶を意味します。運動記憶は、乳児の成熟のうち、とても顕著な特徴の1つです。お座りのしかたや、手−眼協調などの学習には、運動記憶の何らかの構成要素が必要となります。Piagetの提唱した知覚運動図式という概念は、まさにこのこと(あるいはそれ以上)を意味しています。〜