うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【それによるなら私たちは、患者に耳を傾けることを身につけますし、ひとつのセッションの瞬時瞬時に私たちを患者がどのように経験しているかをしばしば伝えてくる無意識のヒントに耳を傾けられるようになります。】


 今日の日中は、賑やかだったので、2つの班に分かれました。
おっちゃん組は、蔵王山の展望台(昨日も違う方と行きましたが)のプロジェクションマッピングで、魚踏み遊びをしました。
 総勢、4名でしたが、結構盛り上がりました。階段で3階と展望台まで上がりました!
車で上がっている時に、ホームの貴ちゃんが、ヘルパーさんと蔵王山を歩いて登っていました!!
さすが貴ちゃんです!



 体を動かした後は、マックに行きました。
インフルエンザが大分落ち着いたので、明日は、いのうえっちとの約束通り、ホームの方と、ショートの方とで、朝から志都呂のイオンに行きます。



 もう一つの組は、菜の花を見に行ったそうです。
14時にうたたねで合流して、うたたね茶会をしました。
 全部で8回点てましたが、食べたり、飲んだりが早すぎる方々は、写せませんでした(笑)本と、一気でした.......。



 お腹が落ち着いた頃に、看護師さんがKさんのお腹のマッサージをしていました。
周りの皆さんも、ゲラゲラが移って(笑)賑やかになりました。

 今日も無事に一日が終えた事、皆様に感謝しています。


 今回のアップは、自分たちの気を引き締めるためのアップです。
講義や研修に、1回しか行っていないのに、何か全てわかった様になる方がいるのは、事実です。
 ウィコットですら、自分の限界を感じながらも、研究を怠らなかったのにと思うと、自分も含め、反省しないといけませんね.....。
本当に努力されておられる方々は、本当に謙虚です。ソクラテスのドクサの吟味を思い出します。


『あやまちから学ぶ』
精神分析心理療法での教義を越えて
パトリック・ケースメント著
松木邦裕 監訳





日本の皆様へ
 私たち分析家は、ひとたび分析家としての自信を抱き始めるところ、ときとしてあやまちをおかしたり、患者に誤解してしまいやすくなるようだと私は気づいてきました。それは、自分は「知っているのだ」と思うようになるからなのです。 分析ととしての私たちの仕事に自信を見出だすまったく異なるふたつの方法があります。 ひとつの方法は、私たちの仕事への教義的なアプローチを学ぶことです。それは確かさの感覚を与えてくれますし、とても迅速に、力量があるという錯覚を私たちにもたらします。しかしこのようなあり方を、私たちがまちがってしまっているときに、患者がしばしば出してくる微妙なサインにオープンでなくしてしまいやすいのです。そうなると私たちは確かないかなる理論であろうとも知識をもっと与えてくれるその力量に備わったいる教条的教義から私たちにが採った仮説が患者に押し付ける臨床スタイルを身に付けていきます。そこでは患者は、自分について仮定されているものに服従するようにとのプレッシャーを感じるでしょう。 一方、私たちが仕事において発見していくまったく異なる自信があります。それによるなら私たちは、患者に耳を傾けることを身につけますし、ひとつのセッションの瞬時瞬時に私たちを患者がどのように経験しているかをしばしば伝えてくる無意識のヒントに耳を傾けられるようになります。とりわけ、私たちがまちがっていたり誤解しているときにそうできるのです。つまるところ患者が私たちにもっとも届いてもらいたいところに私たちが届くことによってこそ、その分析体験の患者にとっての価値が決まっていくでしょう。このことゆえに、もっぱら理論や別の臨床経験に基づいて見通しを予期していたときに着いたしばしば予想していた道筋とはまったく違った旅に私たちは連れ出されるのです。 私たちは試行錯誤しながら学んでいくのでしょう。けれどもあらゆる分析的に旅を通して、患者はこの努力で不可欠なパートナーと見られましょう。ときを経て私たちは分析家と見られ、私たちの技術への思い込みではなく、そのプロセスにおかれる信頼に基づいた力量を持っているとのまったくちがった感覚に行き着くでしょう。私が思うには、これは教条的な教義の限界を超えたところにあるものなのです。そしてそれが、確立された理論や実践というよくなじんでいる水平線の彼方に私たちを導いてくれるでしょう。ここに私が理解するにいたった精神分析の神秘性や、やりがいのある課題があるのです。
 ここに私の新しい本が日本語となって出版されました。日本の皆様に楽しく読んでもらえるとともに!本書が皆様の臨床の役に立つことので願っています。

パトリック・ケースメント