うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

桜の開花と、今日の散歩と、【分析の設定は、早期の、そして最早期の母親的養育motheringの技術を再現する。これは、その信頼性ゆえに退行を招くのである。】


 今日は雨でしたが、11時から雨が上がるとの予報を信じて、それまで蔵王山の展望台で沢山歩いてから、滝頭公園に行きましたが、雨が止まず外での散歩は断念しました。
雨で上の方を写せませんでしたが、開いている花が本の少しでしたがありました!開いてない蕾も、今にも開きそうなくらいに、膨らんでいました。
 また、寒くなるのでどうなるのでしょうか?



 お昼からも雨が上がらず......。再び蔵王山へ行きました。合計12,000歩歩きました。
身体を動かすのは、本当に気持ちが良いですね! 終ったらお互い笑顔でした!





 本は『あやまちから学ぶ』に入りましたが、最後に一回だけ、ウィニコットをアップさせて頂きます。
まだまだ、勉強になる事が沢山ありますが、これで最後にします。
 下記は、福祉の現場でもそうありたいといつも思いながら支援させて頂いています。
『つまり分析者は分別をもって振舞い、それも単に相対的に成熟した人間であるわけだから、過度の犠牲を払うことなく振舞う、というものである。』
『あやまちから学ぶ』の最初の言葉が、頭でっかちになるな!みたいな文章だったので、またまた頭を殴られた気分になりましたが、何とか踏ん張って、読み続けます(笑)
 先人の方々の業績を前にすると、本当に頭を殴られてばかりですが.........。

 下記の4つは、順を追ってきちんと出来ていければ、答えが出るように思われます。
自分は、精神分析的治療を行おうとしているわけではなく(まあ、できませんがw)、考え方の方法として取り入れさせて頂いています。
 行動療法的なやり方が合う方や時期は、それを行うべきだと思いますし、精神分析的なやり方が合う方や時期にはそれを使うべきですね!
何度も言っているように思いますが、直ぐに結果・答えが出るやり方が、口先ばかりの人間が認めらる社会になっていますが、ゾウの時間、ネズミの時間という本が、大分前に有ったと思いますが、じっくり時間をかけた方が、長続きするし(組織も支援方法も)、そうあるべきだと思われます。的を外れたことを、延々とするのは、時間の無駄ですが(笑)
『ここには研究すべき豊富な素材があり、これらすべてと両親の普通の仕事との間には、非常に著しい類似性のあることが気づかれるだろう。その仕事とは、特に幼児とともにいる母親のものだが、母の役割を果たしている父親についても、そして幾つか述べる観点ではごく初期の母親の仕事についてもそうである。』
『精神病的な病は、個体の情緒発達の早期の段階における環境の失敗に関連している。不毛感や非現実感は、本当の自己を保護するために発達する偽りの自己の発達に属している。』
『患者の退行は、早期の依存あるいは二重依存への組織化された回帰である。患者とその設定は、一次的ナルシシズムの最初の成功した状況へと融合していく。』
『この限りでは精神病的な病いは、患者の退行とうまく噛み合って特殊化された環境が提供されることによってのみ軽減されうる。』





 

実践では、つぎのような一連のことが起きる。


1.信頼をもたらす設定の提供。

2.患者の依存への退行。それにある伴い、当然、危険の感覚も生じてくる。

3.患者は新しい自己感覚を持ち、今まで隠されていた自己は全体的自我に服するようになる。中断していた個人の過程の新たな前進が見られる。

4.環境の失敗状況を解凍すること。
5.強力な自我という新しいポジションからの、早期の環境の失敗に関連した怒り。それは現在において感じられ、そして表現される。

6.退行から依存へ回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
7.本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力をもって実現可能になっていくものとなる。



 これがすべて、何度も何度も繰り返される。
 ここで精神病の診断について、注釈を加えておかなくてはならない。

一群の狂気の人びとについて考える場合、防衛が混沌状態にある人びとと病気を組織することができている人びととの間を、大きく区別しておかなくてはならない。確かに、精神分析が精神病に応用されることになった場合は、高度に組織された病気のある方が、より成功しやすいということであるにちがいない。白質切截術に対する私自身の個人的な恐れや電気痙攣療法への疑いの念は、精神的な病気は本当の自己を保護すべく工夫された防衛組織であるという私の見解、および偽りの自己による表向きの健康は患者にとって何の価値もないという私の感じ方に、由来するものである。本当の自己がうまく隠されている病気がいかに苦痛を伴っていても、われわれが治療者として患者とともに遡って行き本来の環境の失敗状況を置き換えない限りは、病気の方が唯一の良い状態となるのである。 ここでもう1つの考え方が、自然と導かれることになる。一群の精神病患者たちの中には、臨床的に退行している者とそうでない者がいるだろう。臨床的に退行している者がより重症だというのは、決して正しくはない。精神分析者の視点からは、破綻してしまった状態の患者と取り組む方が、それに匹敵する症例だとしても、しかし正気に逃避してしまっている状態と取り組むよりは、容易なのである。 破綻を体験するには、大きな勇気を必要とする。だからといって他に選ぶ道とは正気へのとなるということになるかも知れず、それではうつ状態に対しての躁的防衛に相当する状態になってしまうのである。幸いにもわれわれの症例のほとんどは、破綻を分析時間内に取り押さえることができる。さもなければ、破綻が限られ、限局されているために、患者を取り巻く社会環境がそれらを吸収したり、それらとうまく取り組むことができるのである。〜


〜もっとたくさんのことを述べることができようが、すべては突き詰めれば次の事実で帰着する。つまり分析者は分別をもって振舞い、それも単に相対的に成熟した人間であるわけだから、過度の犠牲を払うことなく振舞う、というものである。もしフロイトがうまく振る舞っていなかったとしたら、彼が自らの技法を用いることによって到達した精神分析の技法やその理論を発展させられることはできなかっただろう。このことは、その際彼がいかに賢かったとしても本当である。肝心なことは、患者のなかにの退行を引き起こす分析の特殊に時期においては、ほとんどどのような詳細であれ極度に重要なものとされうるということである。 ここには研究すべき豊富な素材があり、これらすべてと両親の普通の仕事との間には、非常に著しい類似性のあることが気づかれるだろう。その仕事とは、特に幼児とともにいる母親のものだが、母の役割を果たしている父親についても、そして幾つか述べる観点ではごく初期の母親の仕事についてもそうである。 さらに付け加えたいのは、フロイトにとっては3人の人間が存在しており、そのうちの1人が分析室から締め出されている、ということである。そこに2人の人間だけが関与しているとしたら、分析的設定において患者の退行があったことになり、その設定は技術を備えた母親を表し、患者は幼児ということになる。さらに深い退行の状態もあり、そこにいるのはたった1人、すなわち患者というわけである。たとえ他の意味で、つまり観察者から見たなら、2人存在するとしても、このことは正しいのである。 これまでの私の論点は、次のように述べることができる。精神病的な病は、個体の情緒発達の早期の段階における環境の失敗に関連している。不毛感や非現実感は、本当の自己を保護するために発達する偽りの自己の発達に属している。
 分析の設定は、早期の、そして最早期の母親的養育motheringの技術を再現する。これは、その信頼性ゆえに退行を招くのである。 患者の退行は、早期の依存あるいは二重依存への組織化された回帰である。患者とその設定は、一次的ナルシシズムの最初の成功した状況へと融合していく。 一次的ナルシシズムからの前進は、環境の失敗状況に十分な形で対応できるようになって、新しく始まる。その際は、本当の自己を保護する偽りの自己を巻き込むような防衛の組織化を伴わない。この限りでは精神病的な病いは、患者の退行とうまく噛み合って特殊化された環境が提供されることによってのみ軽減されうる。
 本当の自己が全体的自我total egoの下に服しているという新しいポジションからの前進が、個々の成長という複雑な過程の点から、今や研究可能になるのである。〜