うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね増築工事再開と、【私は、「よい経験」だけで、とくに治療者が意図してそのよい体験を提供しようとしていたならなおさら、そこから恒久的な変化が生じるとは思いません。】




 昨日は、日曜日なのに、大工さんが来て工事を進めてくれていました。
明日が棟上げなのですが、お天気が微妙なので、早めにしたくて来て下さったようです。
 今朝は、木材を運んできておられました。


 今日は夜勤ですが、昼間にうたたねの重度の方の入浴介助をしてから、渥美に走り、学齢児さんの入浴介助をしてまた、うたたねに夜勤として入りました。
日中は、今日も賑やかだったようです。
 すろーじゃむ周辺は、春爛漫でした!花粉症と、精神に障がいをお持ちの方には、少し辛い時期ですね.......。
 午前中は書類を作ったり、ギターを弾いたり?ギターを弾いたり、書類を作ったり?かもしれませんね(笑)



 本は、学齢児さんのバスを待つ間に読みましたが、アップは昨日読んだ箇所です。
 下記とは反対のこと、厳しいだけでも、個人的には恒久的な変化が生じるとは思いません。
ここは、やはりウィニコットのいう、ほど良いが意識されるべきですね!この文章だけでも、この本を読ませていただく価値があるように思われます。 
『私は、「よい経験」だけで、とくに治療者が意図してそのよい体験を提供しようとしていたならなおさら、そこから恒久的な変化が生じるとは思いません。』

 夜勤の仕事が一段落したので、アップしました(笑)乾燥機が止まったので、最後の乾燥機をかけます。
仕事に戻ります。




患者と取り組んでいるプロセスに、患者がもっとも深いところで伝えがっているのに耳を傾けようとし、それを理解しようとしながら、私たちは信頼できる存在であり続けようとしつつ、かつ関心を持ち続け、患者に適切に対応しようととも努めるのです。この結果生じた関係のなかで、患者にとって真新しい体験を見つけるかもしれません。このこと自体、とても治療的なものです。しかし私は、よりよい経験をただ提供することを私たちの目的とは決してすべきでないと考えます。私は、「よい経験」だけで、とくに治療者が意図してそのよい体験を提供しようとしていたならなおさら、そこから恒久的な変化が生じるとは思いません。よりよいものと後に判明するようなものや、もっと深く治療的なものは、もっと相互作用的なものなのです。この相互作用的であることが、私たちがそのプロセスに調律できたり、ついていけるようになるなら、それ自体の無意識的な知恵や方向性を持っていそうなプロセスのなかに必然的に、治療者と患者の両者を巻き込んでしまうのです。それに続く臨床の旅は、常識が教えてくれそうなことや、あるいは患者によかれと私達の意識的な想像したり選択した事態を超えたところに私たちを導いてくれるのです(第5章、6章、7章参照)。
 無意識的な役割対応role−responsiveness(Sandler,1976)や実現化actualization( Sandler,1993)、そして時にはエナクトメントenactment(Chused,1991)というプロセスを通して分析家は、目を向けられるために、ワークスルーするために、さらには癒されるために患者が持ち込んでいる早期の外傷状況と不気味なほどの類似、パラレルさに自分が引き込まれて癒されるのに気づくことがあります。そして患者がまさにもっともありえそうにないやりかたでこころの中で自分を閉じ込めていたものから終局的に自分自身を解放していこうとするとき、患者が分析にもっとも届いて貰いたいところに私たちが到達していることがあるのです。このプロセスで私たちが、不可避にあやまちを、ときにはとても深刻なあやまちを犯してしまうのです。しかしときにはこのへまにもかかわらず、そのとき私たちがへましたものを患者自身が自分の生活史のところからとてもうまく利用してしまっているのを発見して驚いてしまいます。こうした理由で、本書を通した主題は、あやまちにかかわることなのです。すなわち、できるだけあやまちを避ける方法、私たちがまちがえてしまっているときによりうまく気づく方法、そして患者がわかっているあやまちに一緒に取り組んでいく方法です。