うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【一方分析家には、年長の子どもに面した父親のように、対峙しておく心構えを備えた断固とした態度が求められるときもあります。】




 今日も日中が賑やかだったので、2班に分かれました。
 おっちゃん班は、いのうえっちとの約束を果たすために(笑)志都呂イオンモールに行きました。
ショートさんが入るのが少し遅れたので、12時近くに着いたので、席を探すのに苦労しました。
 外の席を取り敢えず確保して、皆さんと何を食べるか、見に行ったらラッキーなことにいい席が丁度空いたので、鞄を置き確保しました(笑)
いのうえっちは、車の中でスパゲッティを食べたいと言っていたので、先に行きました。
まつおさんも、まりちゃんも、スパゲッティにされましたが、利恵さんはオムライスを選んだので、自分もオムライスにしました。


 ご馳走を頂いた後は、ガーデンパークで散歩をしてから帰りました。
お天気は良かったのですが、その分、花粉を沢山浴び(笑)目が非常に痒いです......。






 本は、早めに出て、得意の(笑)ファミマで読みました。
今回も、自分に向けた箇所のアップです。

 下記は、現場でも特に男性の利用者さんに対して良く思います。きちんとエディプスを通過できていないなとか、きっと腫れ物を触るようにされて来られたんだなとか、本当に良く感じてしまいます。
 『一方分析家には、年長の子どもに面した父親のように、対峙しておく心構えを備えた断固とした態度が求められるときもあります。』


 下記に出て来る対人関係理論は、ハリー・スタック・サリヴァンですね。個人的には捨てがたい理論です.......。



導入のことば
 これらの内的な世界を見ていく作業への私のアプローチは、できるだけ慎重に、患者やスーパーヴァイズする人たちの作業についていくことです。理論や技法に関しての特定な立場の証拠や確証を探そうとするのではなく、臨床経験に私は沿っていきます。空想phantasyの威力や転移を認識していくと同時に、無意識についての気づきから知っていくことや、患者の現在の生活や面接室のなかに患者の過去がダイナミックに現出していることがしばしば見出だされるとの感覚によって導かれるやりかたを選んできました。理論が予測していたようなところに、私たちはしばしばたどり着くものです。けれども、無意識のコミュニケーションから浮かび上がったものが導いてくれるよりも、理論が直接導くほうが必要であったとか有効であったということはめったにありませんでした。 こんな風に私は患者にアプローチしてきました。ところが、ある分析家が私の臨床とアメリカの関係学派とのあいだに多くの類似点があると論じているのを見つけ、この見解に興味を持ちました。まったく違ったところから始めた分析家が分析過程を似たように見るようになっていることや、この見方がある特定の理論学派によって教えて込まれることによって身についていくのと同じほどに、臨床作業への独自のアプローチから身に付くものであろうといった比較には、他の人たちも興味をかき立てられるであろうと思います。私が対人関係論や相互関係性の文献を引用していないのは、それらの文献がこの臨床的な探求の旅のあいだ、どの段階においても私を導いてくれたり影響を与えたりするものではなかったからです。事実、賢いやりかたではないのかもしれませんが、この独自の旅が私をどこへ連れていってくれようとしているのかがわかるまで、私はそうした文献に目に向けないようにしています。 分析へのこの整然としないアプローチは、繰り広げられる転移の背景としてのみならず、本来それ自身が持っている強力な要素として、分析過程でのふたりの分析関係によって演じられている部分をもっとみるようにと私を導いてくれます。多くの人がすでに気づいているようにこの関係は、患者と分析家それぞれのパーソナリティがともに織り成すことで独自に作り上げたものです。この関係は科学的コンテクストの範疇から予測されうる画一的な標準に、必ずしものっとっているものではありません。この関係は、それぞれの患者と発展するのであり、その関係自体のもつダイナミクスと無意識的な目的とともに展開していくのです。分析家があまり防衛的になりすぎず許容できるのであれば、母親とあらゆる年齢の子どもの関係、あるいは父と子(多くは年長の子ども)の関係と多くの点で重なる関係の持ち方にいつのまにか引き込まれるのです。ここから多くを学ぶべきであり、深い変化は結果として生じるのです。 退行のような、とある状況において、分析家は、母親が乳幼児にそうされるように、患者に支配されるよう求められるかもしれません。けれども分析家がこのコントロールを受け入れるときに、この関係で自分は無力にさせられていると意味づける必要はありません。一方分析家には、年長の子どもに面した父親のように、対峙しておく心構えを備えた断固とした態度が求められるときもあります。そして分析家は、患者が欲しがっていそうだったり要求していそうなこと、あるいは必要としていそうなことなどさまざまなものによって押されたり引かれたりすることに身を任せながら、また(願わくば)患者がこのつながりのなかに(無意識的に)見出そうとしているであろうものに感受性鋭くありながら、分析関係は、潮の満ち引きのように続きます。しかしながら、必要とされている対処は、必ずしもどんなときでも直面化することでもなければ、分析家が患者に受身的にただついていくだけでもありません。鋭く感知する技術を高めていくことや、別の新たな機会に必要とされる類の対応を、きちんと認識できるようになることが求められているのです。