きれいな朝焼けと、金曜日の散歩と、【しかし私は、よりよい経験をただ提供することを私たちの目的とは決してすべきではないと考えます。】
昨日は、急な訃報で何も手につかず.......。ただ、裏のお地蔵さんを見つめるだけでした。お地蔵さんは身代りになってくれると言うので、ただただ、身代りになって欲しいとお願いしました。
今日は早番でしたので早めに出て、ファミマで本を読もうとして家を出たら、きれいな朝焼けでした。落ち込んでいた自分の心に、勇気を与えてくれました。
金曜日の散歩は、まだまだ暑いので、蔵王山の展望台を利用させて頂いています。
仕事はきちんとさせて頂いていますが、急な訃報には体の芯からは力が出ませんね.....。沢山歩けば少しは元気が出ましたが、少し引きずりそうですね......。
下記は、またまた飛んで、ケースメントの『あやまちから学ぶ』からですが、現場でも非常に大変なことだと思います。うたたねは、遊びだからと言われたことが、ずっと心に残っていて、悔しい思いでなにくそと、頑張って来ました(笑)。まあ、そのおかげでもっともっと勉強してやれ!と思えたのも事実です。ウィニコットは、遊べない状態の人には何をしても効果がないと言っていますが、正しくその通りだと思われます。支援者がそもそも余裕がなく、遊び心も無かったら、利用者さんを笑顔にも出来ませんし、堅苦しい雰囲気が流れるだけですよね?重度の方ほど、その雰囲気を読み取るのが早いので、逆に支援者に余裕があり、遊び心があると、早く安心・安全感を感じて頂く事ができます。余裕のなさは、攻撃的と感じてしまうかもしれませんね!しかし、ダメな事は、毅然とした態度で示すべきだと思います。
下記にあるように、支援も相互的なものなので、一方的な押し付けも、攻撃されていると感じてしまうのでしょうね。普通に接するのが一番だと思うこの頃です。
~しかし私は、よりよい経験をただ提供することを私たちの目的とは決してすべきではないと考えます。
私は、「よい経験」だけで、とくに治療者が意図してそのよい体験を提供しょうとしていたならなおさら、そこから恒久的な変化が生じるとは思いません。よりよいものと後に判明するようなものやもっと深く治療的なものは、もっと相互的なものなのです。
この相互作用的であることが、私たちがそのプロセスに調律できたりついていけるようになるなら、それ自体の無意識的な知恵や方向性をもっていそうなプロセスのなかに、必然的に治療者と患者の両者を巻き込んでしまうのです。
それに続く臨床の旅は、常識が教えてくれそうなことや、あるいは患者によかれと私たちが意識的に想像したり選択した事態を超えたところに私たちを導いてくれるのです。~