うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

旅茶碗で一服と、【人間の発達のこの段階で反応することは、一時的なアイデンティティの喪失を意味する。これは安全でないという極端な感覚をもたらし、自己の連続性が喪失されるようなさらなる例の予感と、その上私的な人生の達成に関して生来的congenitalに(しかし遺伝的ではなく)望みのないことhopelessnessとの基盤をつくる。】


 今日は夜勤なので、久し振りにジムに行き、身体を動かしてきました!
緊急の受け入れなどがあり、中々時間が取れず、本当に久しぶりだったので、いつもと同じメニューでは、息が直ぐに上がって来ましたので、ストレッチは2周分で筋トレは一周で止めときました(笑)本当に体も動かさないとダメですね.....。
 病院に入院されている方に、お薄を点てに行った帰りに、自分も草餅を買って来て、そのまま、旅茶碗でお薄を頂きました。
まだまだ寒いですが、少しずつ春に向かって進んでいる気がしました。


 帰宅したら、ねこさんが相変わらず、気持ちよさそうに寝ていました。
日中は、暖房を入れるのを我慢しているので、ねこさんも暖かい所を探して寝ています。

 三日月のギターアレンジが出来ましたが、いつもの如く、弾き込んでもっと気持ちよく弾けるように完成させていきます。


 本は、ジムが開くまで、ファミマで読みました。
胎児の愛着障がいに近づいたような、そうでもないような.......。
 難しい箇所ですが、もう少し読み込んでみます。


出生体験
 フロイトが指摘し続けていることではあるが、出生体験は母親の身体からの分離に関するどんな種類の認識共に関係ない、ということは理解されるだろう。生まれていない胎児にも心の特定の状態を、私たちには仮定することができる。乳児の私的な自我発達が、身体的な面と同様に情緒的な面においても妨げられることがないなら、事態はうまく運ぶと言うことができるように私には思える。出生前に情緒発達の始まりがあるのは確かであるし、情緒発達を偽りで不健康なものへとつき進めて行く能力も出生前にありそうである。健康な場合には、環境側の妨害はある程度有益な刺激になるが、ある程度を越えるなら、これらの妨害は有用なものではなくなり、反応を引き起こしてしまう。この発達の非常に早い時期においては、アイデンティティを喪失することなく反応しうるほどの充分な自我の強さを持ち合わせてはいない。


〜患者は言った。「最初は、人間はおのおのの泡のようなものです。外側の圧力が内側の圧力に積極的に適応のなら、泡は意味のあるものとなってしまいました言い換えればそれが乳児の自己なんです。でもって環境側の圧力が泡の内部が圧力より高かったり低かったりするなら、それはもう重要なのは泡でなくて環境なんです。泡が外側の圧力に適応するんです」。これを理解するにつれて、患者は初めて分析の中で、くつろいだrelaxed母親、すなわち生き生きしていて、目覚めており、そして自分の子どものために献身するという質を貫いて積極的な適応を行う用意のある母親に抱えられる、と感じとった。
 出生前に、特に予定より遅れている場合には、いとも容易に乳児に繰り返される体験がある。その体験においては当分の間、力点は自己よりも環境に置かれ、まだ生まれていない乳児は、出生の時が差し迫るにつれて、ますます環境とのこの種の交わりにとらえられるようである。かくして、自然な過程では、出生体験は乳児には既知のものの誇張された一例なのである。さしあたって出生の間、乳児は反応者であり、重要なものは環境である。それから出生後に、それが何を意味しようと、重要なものは乳児であるという事態に回帰する。健康な場合には、乳児は出生前に環境の侵襲environmental impingementに対して準備ができていて、反応することから反応する必要のない状態に自然に回帰する体験をすでに持っており、この反応しなくて良い状態が自己が存在し始められる唯一の状態なのである。 これが、正常の出生過程について、私が言いうる最も単純な言い方である。〜

〜反応せねばならないという必要性によって表される外傷が最も重要なことである、ということは指摘しておいてもいいかもしれない。人間の発達のこの段階で反応することは、一時的なアイデンティティの喪失を意味する。これは安全でないという極端な感覚をもたらし、自己の連続性が喪失されるようなさらなる例の予感と、その上私的な人生の達成に関して生来的congenitalに(しかし遺伝的ではなく)望みのないことhopelessnessとの基盤をつくる。 脳の変化や麻酔薬投与によって無意識状態(ここではこの語は身体的な意味で使用されている)が繰り返される時期は、意味深いものとは思えない。こういった状況で一度ならず何度か無意識的になっていた、という鮮明な描写を患者がする時、再演されていることは、圧力というような環境の侵襲に対する長期にわたる反応が繰り返されているために、自己の連続性の糸がぷつりと切れてしまうことであるように思える。(脳震盪のような場合の)無意識状態は、記憶されないのである。