久しぶりに、金曜日の散歩に行けました!
朝は、初立池で、ガマズミの新芽が展葉していました。
五葉アケビの芽も展葉してきていましたし、春かな?と思いましたが、
昼から行った、芦が池での風景は、まだ冬でした......。
まだ二月の中旬ですからね、と一人で納得しました(笑)
結局、今日は16,000歩(半分以上はジョギングでしたがw)歩き、カロリーの消費も560くらいに携帯ではなっていましたが、何かの拍子に、車に乗っている状態に暫くなっていたりなので、正確にはもっと数値が伸びているかもしれませんね!
よく眠れそうです!
帰宅後、岐阜の友人から頂いた、マカボンと、チョコレートケーキをお薄で頂きました!
チョコレートケーキはお薄に非常に合いました。美味しかったです!
本は、早めに出勤してファミマでコーヒーを飲みながら読みました。平常運転です(笑)
この章は、逆転移の中の憎しみという題なので、Margaret Little博士の名前が出て来ても不思議ではありません。が、ウィニコットがMargaret Little博士のスパーヴァイザーでしたよね?本に書いていました。
〜次のような観察を、私はMargaret Little博士に負っている。すなわち妄想症においてはばらばらになった迫害が通常の臨床像に見られるように統合され、組織されるようになる経過を、このことが説明してくれるかもしれないということである。組織するということが、精神を防衛するために個人の知性によってなされる。そしてこれを理由にして、ばらばらになった迫害の組織化それ自体が堅固に守られるのである。
このことの自然な結果として、症例によっては迫害の混乱状態が非常に激しいので、知性が順序を結びつけたり保持したりすることに失敗するようになるのである。そのような場合には、際立った知性の代わりに、臨床的には明らかな精神的欠陥が見られ、これは本来の正常な大脳組織の発達をものともしない。この主題を通常の心身医学的症候学に見られるような、出生外傷に属している身体感覚の記述により展開させることは可能であろう。しかしながら重要なことは、個々の患者にとってパターンは慎重に設定されているということであり、また精神分析作業の過程の中で起こる追体験において、時間的に一定の順序が維持されているということである。この種の症例のどのような分析においても、その特定の患者に属するものである限りは、その諸感覚と諸感覚の順序は馴染みのものとなる。 この文脈における重要で実践的な点は、2つないしそれに以上の因子は混乱を引き起こすが、1つのことは一度に取り扱うことができるという方法のことである。精神分析的な技法に主要な原則の1つは、患者が一度に1つのことを扱えるような設定を提供するということである。私たちの分析作業においては、患者がある特定の時間内に解釈や追体験のために持ち込んでくる1つのことが何であるかを見極める以上に重要なことはない。秀でた分析者は、患者から正確に提起された細目に解釈や行為を絞るのである。分析者が自分自身の要求に従って振舞ったり、一度に1つのことを扱うことで対処していこうとしている患者の試みをそれで損なったりしながら、理解したと感じるものは何でも解釈してしまうことは、間違った実践である。このことは過去に遡れば遡るほど、さらに真実になるように思える。出生時の未熟な精神の統合は、1つの体験によって強化されることができ、侵襲がそれほど長期間続かないならば、たとえ侵襲に対する1つ。反応によっても強化されることがある。しかしながら2つの侵襲は2つの反応を要するし、精神を2つに引き裂くものである。私が述べてきている自我の努力は、侵襲を心的活動によって水際で食い止める試みであり、その結果侵襲に対して許容できる反応は一度に1つということになるし、それで精神が崩壊することが避けられる。依存への退行によって、侵襲が複数で処理できなくなる時期より前に患者が戻ることを必要としている限り、もしも患者の情緒的発達を遡ることができるのなら、こういったすべてが非常にはっきりと精神分析作業の中に示されるのである。
最後に、出生外傷だけの分析による治療というようにものはない、ということを私は繰り返し述べておく。こういった早期段階に達するためには、通常の精神分析的理解のすべての領域において、分析者の力量を患者に示し続けなければならない。さらに、患者が充分に依存的になり再び前へ進み始める時、私たちは抑うつポジションの非常に正確な理解が必要になるだろうし、性器統裁genital primacyに向けて徐々に進む発達や、依存から脱して自立を獲得しようとする衝動と対人関係の力動性について、正確な知識が必要となるだろう。