うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【経験の性愛的構成要素を一緒に伴った攻撃性の融合は、その体験の現実性の感覚を高めるのである。】


 今日の日中は、蒲郡の平野屋さんにアールブリュットを見に行ったり、風船バレーをしたり、

 絵を描いたり、お薄を頂いたり、

 買い物に行って、セルフレジをしたりしましたが、平野屋さんの写真がないそうです......。

 おっちゃんは、渥美の送迎を済ませてそのまま、渥美で学齢児さんの入浴介助をしてきました。


 本は、早めに出てと、バスを待つ間に読みました。
今回も、少し難しいですが、次回への布石だと思って頂ければ嬉しいです。


3
対象の外的性質

〜この観察から導き出される直接的な結論は、早期の諸段階において、我Meと、我でないNot−Meが確立されつつある時、我でない、あるいは外的であると感じられる対象に対するニードへとより確かな形で個人を駆り立てるのは、攻撃的要素なのだ、ということである。対象が主観的に思い浮かべられたり、私的に創造されたりしている間に、あるいは個人が、早期における一次的同一化というナルシシズムに近い状態にいる間に、性愛的体験erotic experienceは完成されうるのである。 性愛体験は、性愛的本能衝動を軽減するものであればどんなものによっても完成される。そしてそれは、前快感forepleasure,全般的かつ部分的興奮緊張の高まり、絶頂感、そして勃起減退あるいはその等価物を含み、そしてその後に欲望欠如の時期が続くのである(その欲望の欠如は、欲望を通して創造された主観的対象subjective objectの一時的な絶滅annihilationのため、それ自体で不安を生むことがあるかもしれない)。他方、攻撃的衝動は、そこに対立物がないならば、いかなる満足の体験ももたらさない。対立は環境から、つまり我から徐々に区別されるにいたる我でないものから現れなければならない。性愛的体験は動作の際にかかわる筋肉と他の組織の内に存在しているということができるが、このエロティズムは特定の性感領域erotogenic zoneと結びついている本能的エロティズムとは異なる水準のものである。 患者たちは、(多かれ少なかれ無融合de−fusedの)攻撃的体験が現実的と感じられること、それも(これまた無融合の)性愛的体よりもはるかに現実的と感じられることを、われわれに教えてくれる。両方とも現実的ではあるが、前者はきわめて価値のある現実感をもたらすのである。経験の性愛的構成要素を一緒に伴った攻撃性の融合は、その体験の現実性の感覚を高めるのである。 攻撃的衝動が、外的対立物なしでも自らの対立物をある程度見出だすことができるというのは真実である。そしてこのことは、正常な場合、胎児期に端を発する脊椎の魚様運動fish movemennt中に示されており、異常な場合、病んだ幼児の(不毛な)前後運動(ロッキング運動、あるいは内的で見えない魔術的前後運動を示す緊張)に示される。これらを考慮してもなお、正常な発達において、外側からの対立物が攻撃的衝動の発達とともに現れると言うことはできないものだろうか?
 正常な出生では対立物と出会うことが、体験の型を提供して、努力というものに“頭から先にhead first”という性質を与える。出生は、しばしば正常でないので、それは広い範囲にわたって複雑なものとなり、そして頭から先にの代わりにお尻から行われることがありうる。それにもかかわらず、純粋な努力と対立物に対する頭から先にという関係との間の結びつきには、一般的な妥当性があるように思われる。このことは、授乳を受けようと努力している乳児についての観察によっても検証できるであろう。つまり、私の理論によれば、彼らは頭のてっぺんに対するある程度の対立によって助けられることがあるのである。〜