うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【最後に、以上の仮説の総括として、大人の病理は、発達上のある段階に残された固着点への退行であるという仮説があります(Kohutの自己愛理論も「融和した自己期への固着」を考えます)。】


 今日は早番で、男子の支援をさせて頂きました。
たくちゃんを起こしに行ったら、ミノムシさんのようでした(笑)。
 羨ましい程、眠られます。


 日中がある事業所があったので、お休みの方と午前中は、蔵王山と池ノ原に行きました。


 池ノ原周辺を散策して、お薄を頂きに行きました。



 直ぐにお昼になり、今日はすき屋さんに行き、皆さんと食べてきて、うたたねで食べられる方も、買って来てほしいとのことだったので、2つ買って帰りました。




 本は、早番にもかかわらず(笑)早めに出て、ファミマで貧血になっているので(笑)鉄分が一日分入っている、有名なヨーグルトを飲みながら、スターンを読みました。本はまだ、丸田先生のですが、ちょうどその中にスターンが出てきたところのアップです。




第7章 乳幼児精神医学からの還元
ーーコフートからスターンへーー

1.臨床乳児と被観察乳児
 学問の新しい発展が、それまで別々の世界に分画されていた知識を統合することによってなされることがよくあります。Sternが遂げた展開も、まさにその手法によるものでした。彼は、「精神分析の発達理論として描かれた乳児」(臨床乳児chinical infant)と「発達心理学者が実際の観察をもとに描く乳」(被観察乳児observed infant)という、まったく別枠でとらえられてきた2種類の乳児を、長年の経験と膨大な資料のもとに対峙させたのです。臨床乳児は、それが具体的な症例の発達歴であれ、あるいはその普遍化としてある発達理論であれ、大人の患者が連想する乳幼児体験をもとに、治療者が、理論を参照しながら再構築したものです。したがって臨床乳児の記載には、いくつかの精神分析的仮説が前提として含まれています。
 まず第1に、新生児は生まれた当初から、刺激障壁により守られており、外界との交流、特に対人交流をもちません。M.S.Mahlerの「正常自閉期」という概念は、その仮説の上になりっています。また、M.Kleinの描く乳児も、生得的にプログラムされた内的なファンタジーをもとに行動しており、周囲との相互交流はないわけで、極論すれば、平均的な母親がそこにいる限り、その対応がどうであろうが一切関係ありません。
第2に、乳児は生誕時、快楽原則に則っており、現実原則が作動し始めるのは、ずっと時間がたってからです。したがって、現実に即した表象の心的内界における積み重ねは、乳児にできる作業ではありません。
第3に、これは第2とも関係してきますが、乳児の体験をまずオーガナイズするのは情動であり、自分と他者の区別といった認知的cognitiveな作業ができるようになるのは、これまたずっと成長を遂げてからです。O.F.Kernbergの境界例における、情動を「接着剤」とした「良い体験」と「悪い体験」の分裂、つまり、情動による体験の分類が、認知的な自他の区分に先行するという考え(図7-1)は、この、人生早期において情動が果たす役割の優位性を前提としています。
第4に、大人の患者でみられる臨床問題の原点は、発達線上のどこかの地点・時期にあり、その発達地点・時期における問題が、後の病理を生むという仮説です。この仮説をもとに、口唇期と精神分裂病、肛門期と強迫神経症、エディプス期とヒステリーといった相関が述べられるわけですし、Kohutのいう「融和した自己期」の考え方も基本的には同じです。簡単に言えば、発達段階とは、後の人生において病的な形で現れる可能性のある臨床問題と乳児が始めて出会い、それに対処する段階だと言えます。
第5に、口唇期、肛門期、性器期という、各段階に呼応した性感帯という仮説です。そうした各性感帯への没頭は、生物学的にプログラムされており、たとえば口唇期においては、口が、外界とのかかわりにおいて、中心的な役割を果たします。そして、臨床問題の原点も、「口唇期」、「肛門期的」という具合に、性感帯の変遷にそって見られます。
第6に、これは、第1とも第5とも関係してきますが、乳幼児の発達は、欲動という生得的にプログラムされた動機づけをもとに展開してくるという仮説です。したがって、すべての乳幼児が、口唇期、肛門期、性器期を通過しますし、もっと言えば、エディプス葛藤の展開はもちません、父親が存在するか否かにかかわらず、生物学的にプログラムされた必然的なものです。
 最後に、以上の仮説の総括として、大人の病理は、発達上のある段階に残された固着点への退行であるという仮説があります(Kohutの自己愛理論も「融和した自己期への固着」を考えます)。この仮説こそ、精神分析的な検索の方針を決める羅針盤であり、精神分析理論の中でも最も力強く、また、魅惑的な部分です。 Sternが疑問を向け、乳幼児研究の所見をもとに検討を加えるのは、そうした、精神分析的仮説のすべてです。