ガス乾燥機と、【すなわち、出生前、出生中、出生後の乳児の心理学に関しての研究が為されてはいるが、不安と出生外傷との間の関係に関する理論は、結論が出ないままに置かれるべきなのである。】
年末チャリチティーで頂いたご寄付で、カーグの画材と、ガス乾燥機を購入させて頂きました。
棚の高さが合わず、まだ動かせませんが、翌日に帰られるショートの皆さんの洗濯も安心してできるようになりますね!
今日は、祝日なので、すろーじゃむはお休みですが、ホームとショートの方で勤務先がお休みの方が居られ、花フェスタにまだいかれていない方いて、職員と一緒に行かれたようです。写メが届きました。
そういえば、今日は祝日ですね!
本は、午前中に(休みだったので)ゆっくり読みました。
白柳先生の本は、昼食時に読みました(笑)心も身体ももしかして同じ原理で出来ているのでは?と、二冊の本を読ませて頂きながら思ってしまいました。
『患者が転移関係の中で一体どれくらいの年齢であるかを知ることである。』は、決してIQだけの事では測れないと思っています。その方をみさせて頂きながらそれを考えていかないといけないですね。
〜不安の中で起きていることが出生外傷によって決定されていると考えることは、私にとって難しということが分かるだろう。なぜなら、そうなると自然のままに何もなく生まれた個体には何の不安もないか、不安であってもそれを示す何らかの方法も持ち合わせていない、ということになるからである。こんな馬鹿げたことはないであろう。私はこの点で、“不安なanxious”という語に関して論議してみたい。私には、出生時に不安であるような赤ちゃんを考えることはできない。というのも、このような早期には、抑圧とか抑圧された無意識とかは何もないからである。もし不安が、恐怖とか反応的に興奮しやすいことのような単純なものを意味するだけなら、すべてがうまくいくのである。“不安な”という語は、個体が回避することも理解することもできないような、身体的体験(興奮、怒り、恐怖であれ、他のことであれ)のとりこになっている場合にあてはまるように、私には思える。すなわち個体は、起きていることの理由の大部分を知らないunawareということである。知らないと言う語によって、私は抑圧された無意識を指している。進行中のことをかなり意識するようになるなら、彼はもはや不安になることはないだろうし、その代りに興奮したり、恐れたり、怒るなどするであろう。 「快感原則を超えて」の中で、フロイトは言っている。「不安Angstは、たとえそれが未知のものであっても、危険の予期とそれに対する準備のような一定の状態を意味している」。しかしフロイトは、私が言おうとしていることをここでは言い表わしていないようである。つまり個体は、不安という語が有効に使用される前に、抑圧の能力を備えたある程度の成熟を成し遂げていなければならない、ということである。これを一例としてさまざまなことを考察し、私は次のようなことを求めたくなる。すなわち、出生前、出生中、出生後の乳児の心理学に関しての研究が為されてはいるが、不安と出生外傷との間の関係に関する理論は、結論が出ないままに置かれるべきなのである。
私の目下の立場は、それゆえ複合的なものである。言うなれば、正常の出生体験は良性のものであり、自我の強さと安定性を促進できるのである。 差し当たって私は、出生外傷が分析状況に登場してくる仕方に注意を向けて、患者と出生外傷について話し合うことが主要な問題を棚上げしてしまいかねない、ということを特にはっきりさせたい。分析状況で深くは退行していなくて、また分析的面接の合間にも臨床的には悪い状態ではない患者の場合には、出生外傷の線に沿って解釈することに価値があるとは、私には疑わしい。 精神分析技法の困難の1つは、どのような瞬間にも、患者が転移関係の中で一体どれくらいの年齢であるかを知ることである。分析の中でときに患者は、大部分の時間は自分自身の年齢のままでいるが、必要とするなら大人のやり方で表現された記憶や空想により、あらゆる子ども時代の状態に達することもできる。そのような分析では、出生外傷を解釈することは何も有益ではないだろう、と私は思う。言い換えれば、出生素材は夢の中に現われるだろうが、それはあらゆる水準で解釈できるものである。しかしながら分析は、もし必要ならばもっと深く進んでいくことが許されるかもしれないし、また患者は分析的面接の間に時に乳児でいられるためには、非常に悪い状態になっている必要もないのである。そういう時には、起こっていることについて言葉による直接的な記述を求めることなく、理解しなければならない多くのことがあるのである。 私が言及しているのは、おもちゃで遊んでいる子どもの行動よりもずっと早期についてである。分析者の好みや患者の診断に従って、これらの事柄について患者と一緒に作業することが、賢明か賢明でないかはさまざまであろう。私が明確にしようとしているのは、もし出生体験が分析状況に登場してきていいるというのなら、患者が極端に幼児的な状況にあることをしめす別の多くの証拠が確かに存在することになるだろう、ということである。