うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

送り型と、平茶碗?と、生き残る「マッチ売りの少女」たち

 今日は、名古屋でアレクサンダー・テクニークを受けた来ました。
先月は、歯磨きで首の筋肉の緊張のなくし方を指導して頂き、今回は靴下の着脱で腕(肩や鎖骨も含めて腕との事で、肋骨の上に載っているという意識を持って)の筋肉の緊張のなくし方を指導して頂きました。本当は今回も歯ブラシだったのですが、先生がご自身が使用されている歯ブラシを持って来て下さったのですが、申し訳ないので、靴下にして頂きました。
 脱力というのは、エンドゲイニング過ぎて自分は使わないとのこと。話を聞いているとなるほどと納得できました。そもそも動かすと動かさないの中間(ウィニコットの中間領域を思い出しながら聞いていました)を意識するので(アレクサンダー・テクニークは)無理に脱力するというのは、エンドゲイニングになる。納得です。
 寝不足で左の方がこっていましたが、指導通りにしていると本当に楽になりました。
無駄な力を入れない。その動きをするのに、それが必要か?今は意識下で行っていますが、無意識で行えるようになるでしょうか?(死ぬまでに(笑))


 バッグのタグの型を送り型にしました。これで200個分、簡単に作れます。



 夏は平茶碗ですが、ないのでお皿でお薄を点てました。
去年もお皿でしたが、思ったより点てれました(笑)

 普通のお茶碗ならこれくらいは点ちますが.......。
自分は点っている方が好きです(笑)

 電車の中では、600頁の本は大きすぎるので、図書館で借りた『劇的な精神分析入門』を持って行き、読ませて頂きました。読み切る予定が、2/3しか読めませんでした(笑)しかし、良い本で、アップさせて頂きたい箇所が沢山あり悩みましたが、「マッチ売りの少女」の箇所を一回目にアップさせて頂きます。悲しい物語を見たり聞いたりすることによって、浄化されるのを、カタルシスといいますよね?少しカタルシス療法を受けた気分にさせてくれました。


『劇的な精神分析入門』北山修
Ⅲ 外から内へ、表から裏へ
3,生き残る「マッチ売りの少女」たち
 アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」の話では、少女がマッチをすりつづけて、美味しい食事や愛してくれる人に出会うところが心の中の現実なのであり、雪が降って冷たくなった一方の現実こそが外的事実ということだ。この物語は、現実の外傷と心的な現実の解離という現実をうまく例証しているし、自分が多重化して心的なものが現実と混同される過程も描き出している。
そしてそういう状態に追い込まれ、誘い込まれて圧倒されている人々の内なる現実に照明を当て、考えるのが精神分析なのである。
 しかし、いざここで心の分析を進めかけたところで、反論があろう。雪の中で凍死する少女の死を防ぐには、彼女の不幸な外的現実を取り扱わねばならないと。もちろん児童虐待のケースでは環境への介入が急務であり、財力のない「マッチ売りの少女」は精神分析の費用を払うことはできない。十分な精神分析のためには、やはり物的現実における諸条件に不足があってはならないだろう。
 ただし外的な条件も大事ながら、それと同時に、彼女を理解するには、彼女を愛したただ一人の人おばあちゃんの住む内的世界にも目を向けなければならないのだ。彼女が愛されない外的現実から逃げつつあるのは、現実が冷たいだけでなく、内的世界があまりにも甘美であるからだ。そして、内的現実を現実そのものとした彼女は、冷たい外的現実を否定し、結局そこには戻らなかった。彼女の夢は外的に実現することはないからだ。
これ以上物語そのものを分析するのは止めよう。実際の臨床のためには、寓話のままで具体的な症例を考えるのはあまり現実的ではない。なぜなら、彼女は死んだからだ。特に大人の臨床では、主人公のような親からの虐待や現実の酷い仕打ちを受けても、それでもなお生き残った場合が実際のケースなのである。もちろん、実際の現実はどこまでも冷たく、内的世界がまったく暖かいという具合に、寓話のごとく完全に内外を分裂させている症例もある(「福は内、鬼は外」の極端な分裂)。しかし大抵は、その内的現実の記憶には、愛してくれたおばあちゃんだけではなく、虐待した両親の姿も生々しく残っており、辺りには憎しみや被害感、そして罪悪感が渦巻いているはずだ。暖かいはずの内的世界にも、冷たい人が住まうはずであり、記憶の両親は今もマッチ売りを強いていて、うちにも外にも安心して逃げ込める現実はないはずである。そこが、寓話と臨床の差であるかもしれない。実際の内的世界には、希望の太陽の下でも、彼女の外的現実と同様雪が降る。
 さらに重要なことだが、私のように外来を専門とする者の臨床体験では、ほとんどの「マッチ売りの少女」はマッチ売りにそれなりに成功している。マッチが売れぬと帰ってくるなと父親に言われたなら、冷たい現実と虐待から生き残るために、寒空の下でも少しは売って何とか家に帰るのである。物語の主人公のように、母親から与えられた靴をあの寒空で失いはしない。むしろ、必死になって状況に適応して親の要求や期待に応えたケースが生き残っているのである。周囲の機嫌を損なわないよう「良い子」をやり、優等生になって、環境に適応することで過酷な状況はある程度緩和される。こうして成功し生き残った場合、やがて外的な仕事として世間に認められたマッチ売りが肥大して、「マッチ売りの少女」の悲劇は、恐怖、あるいは悪夢ではあったが、心の内側に遠く置き忘れられることになる。
 だから、私たちのほとんどは、「マッチ売りの少女」ほどには不幸で悲惨ではない。外から課せられた要求を聞き入れ、表でマッチを売り続けて過剰反応し、曲りなりに暖かい部屋と食事と言う、幸せな外的現実と多少は良い人間関係を手に入れた。それでありながらも、心の傷が疼く形で、内奥のは見捨てられる不安や死という悲惨な世界が展開していることが多いだろう。物語のように死なずに生きてきた「生き残ったマッチ売り」たちにとり、この内外二つの現実は大きく矛盾し、その二重性をこなすために消耗し、空しくなることがある。心的な消耗とは、この二重性をこなすことからも発生するのである。この二股をかけた生き方が苦しいので、再び私たちは死にたくなったり、引き裂かれたり、ため息をついたりするのだ。
 こういう成功した「マッチ売りの少女」が、マッチのすり過ぎ、マッチの売り過ぎ、具体的には心身の慢性的な消耗を訴えて外来にやってくる。あるいはマッチの時代ではなくライターだという時代変化についてゆけず。希望としてのマッチを見失って急に落ち込んで、まだ増大する社会的ストレスのために再燃した「見捨てられる不安」に苛まれてやってくる。にもかかわらず、一時期のマッチ売りの成功ゆえか、外からは彼女の不幸は見えにくい。周囲を満足させられない不安や罪悪感という情緒は引きずっているが、遠い過去の出来事そのものはむしろ本人の意識からも隠されていたり忘れられている。それは記憶としては凍りついた過去の外傷体験なのであり、傷口が疼きながらも、「生きる」ことから遠ざけられている。ときには今でも「成功するマッチ売り」を生きることに必死であり、止められなくて消耗は深まるばかりであろう。それぞれがそれなりのマッチ売りに成功したからこそ、何とか最悪の事態は回避できたので、そのふるい生き方が止められないのであろう。
 このような外向きの過剰反応の背後に忘れられた内なる虐待話を思い出し、それを情緒とともに生きるためには、やはり面接のための個室と高い頻度が必要である。主観的に彩られた過去の話には、性的なエピソードや親への殺意が含まれていることがある。内的現実では、子どもの彼女は、今日も時間の止まった雪景色の中で死にかかっているかもしれないのである。