うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

タグと、Ⅳ 普通が分かるということ


午前中にタグは完成し、午後からバッグが来ました。
バッグは明日からですね。

 タグが完成して少し休憩したときに『劇的な精神分析』を読ませていただきました。
 今回は「普通」です。

Ⅳ 普通が分かるということ
 (C)逆説で把握する
 それでは、これをどう把握するのがいいのか。矛盾は厭われやすいので、何か納得する考え方が必要だ。
 そこに安西水丸というイラストレーターの書いた漫画で『普通の人』という作品がある。日本人の普通論を書くなら必読の書であろう。私はこの作品がよくできていると思っているのでもないが、実はその漫画集の巻末に載せられた村上春樹の解説が実に秀逸なので、引用しておきたい。
 「しかし僕は思うけれど、このように相反的なるものの同時存在の中にこそ、私たちの偉大なる“普通性”があるのではないか。よく考えてみれば、私たちは実は適当にまとめられる借り物の自分と、借り物ではないけれどうまくまとめられない自分との奇妙な狭間に生きているのではあるまいか。私たちははっきりどちらにつくこともできず、どちらにつこうという決心もできないままに“普通の人”としてこの世にずるずると生きているのではあるまいか。私たちの笑いを誘うのは、その相反性の中で不安定によたよたと揺れ動きながら、自分の目でそのよたよたのおかしさを捉えられないという冷厳な事実の持つ滑稽さではないのか」
 普通と普通じゃないとことという、相反する両方の橋渡しを不器用にやっているのが普通の人の普通さである。これが一番よく分かる。そういうことなのだが、Aと非Aとの両方がAなのだという言い方は、論理としては破産している。ここには、クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというのと同様のパラドックスがある。症例の彼女が見出した「普通の人だけどおかしな人」は実に矛盾した対象関係とその把握だし、的を射た表現の発見だったことを思い出す。
 そしてまた、これだけは言える。この「冷厳な事実」をそのまま描くことは誰にもできない。普通のことを普通に描いた画家がいないということだ。それはどこにでもあり、敢えて描く必要もなく、描かないのが自然だからであろう。これが、フェアバーンが普通のものを内的状況の絵に描かなかった理由かと思う。
 そして普通が分かるようになること、それは症例の報告が教えるように、患者にとって、「難しい」プロセスを経ておかしさとともに獲得される、一つの達成あるいは発見であることは間違いない。やはり「普通」は、そこにあるここにあると指差すことのできないものである。
 ある患者によれば、普通車や普通席には色はないが、グリーン車やシルバー・シートには色があると気づく。普通には色がないなら、画家の関心をひきにくい。ただ、無色と有色、普通と普通でないは矛盾するのだから、普通ではないボケと普通のツッコミの漫才こそ、矛盾が摩擦しないで器用に噛み合うものなら、もっとも笑いを誘うおかしい対話となる。

(f)普通を描く
 まったく普通になることは、誰にもできない。同様に自然に生きたいと言う人間が自然に生きることは難しい、この背反性を個人の人生としてどう生きるか、これが普通の人の創造性が発揮される場所だろう。もちろんその生き方は美術館に飾られることはないが。
 また、それをどう謳うか。そのような普通の人の不自然の生み出すおかしさを、二十代の吉田拓郎はすでに次のような逆説で歌っていた。一節だけ取り出すのは野暮だが、

 イメージの詩(作詞・作曲 吉田拓郎
いったい 俺たちの魂のふるさとってのは どこにあるんだろうか
自然に帰れっていうことは どういうことなんだろうか
誰かが言ってたぜ 俺は人間として 自然にいきているのさ
自然に生きるって わかるなんて なんて不自然なんだろう



 中学生の時にギターを弾きながら歌っていた曲だったので、懐かしく思いました。

 普通はウィニコットのことも分かりやすく解説してくれている個所もあるので、続編があります(笑)
 夜勤に行ってきます。