うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

くりきんとんと、【とても重篤な症例では、患者の窮地にもつパワーと分析家の心に侵入し混乱させる能力が優勢になって、少なくともしばらくは分析家は圧倒され、独立して考える人物はしての機能を奪われてしまう。】


 今日は、夜勤なので、書類を作ったり、ジムで体を追い込んだりしましたが、中々落ち込んだ気は晴れませんね.......。
まあ、現場に入るのが一番の薬ですが!
 近くのスーパーで、栗きんとんが賞味期限近くなって(笑)安売りしていたので買ってきました。




 本は、時間を作って読みました。
まるで自分の頑なさを指摘されているように感じながら読んでしまいました.....。
でも、逆転移をどう使っていくか?が、少しだけですが、分かってきたように思えました。
 便秘の利用者さんを治すことが出来ても、自分は治せなかったり(笑)自分の事になると、まあいいっかとなってしまいがちですが、逆転移を現場で利用したいのなら、それではいけませんね.......。まだまだ未熟もので、人の小さな言葉だけで傷つくようでは、逆転移に持ち堪えるなんてまだ10年早い(笑)ですね......。


このような状況における逆転移において、私たちが患者によってそのような心の状態に「引き込まれる」か、あるいはその危険性にとても敏感になり、ドアが空けられた途端に飛びかかろうと構えている嗅ぎ分け用の犬のごとくに振る舞うか、に気づくであろう。 このようにして、患者にあまりに同一化しすぎる、あるいは彼女の体験をとり入れられない程によそよそしく冷淡であるという気にさせられながら、内的対象についての患者の見方に近づくことができる。 こうした問題はかなり現実的なので、私たちが“共有する”外的あるいは内的世界に患者が触れるこれらの領域では、私たちはとりわけもろくなるのかもしれない。こうした問題を内的にワーク・スルーする空間を作ることはと患者の中の剥き出しの赤ん坊を世話し、同時にいまいましい侵入的な部分を“嗅ぎ付ける”ことについての解釈のしかたに大きな影響を与える。 私が説明しようとしてきた問題は、ボーダーラインや精神病の患者を扱う時により問題となる。これらの患者は、多かれ少なかれ、通常の分析上の共同作業を受け付けないし、マネージメントでの重大かつ慎重さを必要とする問題を分析家に提示するやり方で行動化するのである。彼らは、分析家が従わざるをえないような要求、たとえば週末の特別セッションを要求する。その要求は患者の暴力的な自己愛部分対象肥らせ、強化するものであるが、拒絶すれば、激しい恨みを深め、強化する。たとえば自殺傾向の患者、摂食障害、悪性ヒステリーといった症例では俺はマネージメントの問題は生死に関わってくる。 もちろん、これらの状況では、患者は自己の一部と内的対象を分析家の中に大規模に投影してくる。このような患者はわがままで分析家のニードにまったく応じないために、分析家の中に無力感や復讐的で搾取的行動になす術のない思いを引き起こす。こういった感情を体験し、耐え、同時に本当に欠陥があり支持を必要としている患者の部分と疎遠にならないようにすることが重要である。状況が扱えなくなるこれらの症例ではしよう患者を「分析不可能」(往々にしてそうであるのだが)と考えてしまうことはたやすい。その状況がどれほど取り扱い不能になってしまうかが、患者にとって内的ジレンマがどれほどとり扱うないものかということの証であろう。これらの症例では、分析家は実際に救いようのない気持ちになり、容赦ない冷酷な迫害対象のなすがままになり、その蒼古的原初的超自我は人間理解によっても修復されない。 私が強調したいのは、このような重大で慎重さを必要とするマネージメントの問題に直面した時、分析家は患者の投影を包み込むだけでなく、このような重圧にさらされながら自分自身の感情と折り合いをつけるというものすごい奮闘を強いられるとのことである。そしてさらに、そのような症例では、おそらくはこうした症例であるからこそ、患者は意識的無意識的に如何分析家がこの感情をとり扱うかを知りたがる。 分析が美味く運んでいう時には分析家は絡み合いと距離の取り方の兼ね合いをやりくりできているという得難い喜びを得るものだ。とても重篤な症例では、患者の窮地にもつパワーと分析家の心に侵入し混乱させる能力が優勢になって、少なくともしばらくは分析家は圧倒され、独立して考える人物としての機能を奪われてしまう。