うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、お正月の準備【妄想の放棄が始まるのは、身体の動きを発見したときからです。その動きは、衝動的で、発見的な接触への反応として生じたものです。これが回復の始まりです、というのは、一時的同一化が破綻し、二次的同一化が可能になり、それらを通して、再び�



 今年最後の、金曜日の散歩は、朝は泉福寺さんに行き、午後からは芦が池に行ってきました。
じっとしていると寒かったですが、半分以上ジョギングだったので、一汗かきました。



自宅近くに、笹などが落ちていたので、拾ってきました(笑)
強風で飛んできたのでしょうね。
 明日も用事で豊橋市まで行かないといけないので、焦って正月飾りを作ります。



 今日は、どこで本を読んだのか?覚えていません(笑)
とりあえず、アップさせていただきます。
 下記の3つは、現場主義的な言葉で感服し、参考にさせていただこうと思っています。

『しかし神経症患者は、分析者を、現実の人間だと認識できます。分析者は、しばらくの間は、象徴化され、つまり、患者の両親の「代役」を果たします。実際そのとおりだった両親、あるいは、患者が幼児期に体験した理想化、のいずれかなのです、そしてまた患者は、言語での転移解釈、応えができます。』
『そうした転移を解消するためには、患者は、自分の愛情と憎しみとを果たしまともに、一人の人に向けることがでなければなりません。自分自身の、両親の、そして自分自身の、人間としての良い面と悪い面の双方、を見いだすためにです。そして、想像的現実と客観的現実との差異、を知るためにです。』

『そうした動きとともに、分化が生じてきます。妄想の放棄が始まるのは、身体の動きを発見したときからです。その動きは、衝動的で、発見的な接触への反応として生じたものです。これが回復の始まりです、というのは、一時的同一化が破綻し、二次的同一化が可能になり、それらを通して、再び出来事の結果が破綻し、二次的同一化が可能になり、それらを通して、再び出来事の結果を引き受けられるようになるからです。』


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こうした患者たちの転移の特徴は、本質的にもう一度的です。 神経症では、転移はアンビバレントで、それゆえ二面的です。もっとも、しばしば、そのポジティブな側面図、「性愛化された転移」と呼ばれてきた側面だけが現れてます。その目的は、理想化だけを保ち、正反対の側面の存続を否定しようというものです。しかし神経症患者は、分析者を、現実の人間だと認識できます。分析者は、しばらくの間は、象徴化され、つまり、患者の両親の「代役」を果たします。実際そのとおりだった両親、あるいは、患者が幼児期に体験した理想化、のいずれかなのです、そしてまた患者は、言語での転移解釈、応えができます。
  転移が妄想的な場合には、そうした「代役」や、「仮の」という性質は、転移にはありません。そうした患者にとっては、分析者は絶対的には「確実な」こととして、理想化された両親でもあり、その正反対の両親でもあるのです。あるいはむしろ神格化された両親とかつ悪魔化された両親であり、そして彼自身(患者)も神格化されなかった悪魔化されるのです。というのは、分析者が、完全に魔術的な存在、だと見なされるからです。
 そうした転移を解消するためには、患者は、自分の愛情と憎しみとを果たしまともに、一人の人に向けることがでなければなりません。自分自身の、両親の、そして自分自身の、人間としての良い面と悪い面の双方、を見いだすためにです。そして、想像的現実と客観的現実との差異、を知るためにです。
 妄想的転移が形成されて維持されるときに用いられる主な機制は、分裂、否認、隔離、投影、取り入れるそして反復です。 しかし、「分裂」のためというよりも、主に、精神と身体の統合の失敗(その結果、組織力の弱く自我と、イドとの統合が失敗する)のためにできる自我は転移解釈を受け入れにくいように思われます。そのため、転移解釈をしても、行動の変化も身体活動ももたらせないし、内的現実から外的現実へと導くこともできないのです。彼らの、見かけだけの受容や拒否は、分析者と両親−イマーゴは同一で、という思いこみに基づいているのです、「もちろんそう、ちがうはずないよ」、あるいは「そんなに、考えるなんて!」というわけなのです。 この統合の失敗は、非常に早期が身体体験によるものです。気づきが、本質的には、身体による気づき、の時期で、前アンビバレント、前共生的、前言語的、前対象関係、の段階のときの体験です。緊張は、耐えがたいもの、生そのものを脅かすもの、として体験されます。情動放出がどのような体験となるかは、それが生じた状況と、環境をどのような影響を与えたかで決まります。環境からの反応は、良いか、悪いかのいずれかと感じられるものです。通常、明確な、あるいは積極的な反応が得られないときは、患者のニードや、患者が以前に体験した反応、にならって、どちらに感じるかが定まります。以前に悪い体験があった場合には、迫害と感じることになります。 転移性妄想は、患者の中のある状態を隠蔽します。患者が、そこに到達したいと願うと同時に、恐れている状態をです。そこでは、主体と対象、あらゆる感情、思考、運動は、未分化のこととして体験されます。すなわち、そこには、存在の状態、あるいは体験の状態だけがあり、一人の人が存在するという感覚がないのです。怒り、恐怖、愛情、運動などだけがあり、怒り、恐怖や愛情、運動、を感じている人は、いないのです。これらすべてでは、一つがものもあり、同一なので、相互の分離や区別がないのです。それは、未分化の状態です、精神と身体の両方に関してそうなので、混沌として体験されます。 この状態に到達することは、一つの恐怖です。一人の人間であるという感覚のすべて、同一性の感覚のすべてをなくすからです。この状態に到達した患者は、さしあたって、苦痛、怒り、混乱が悲鳴、などに化します。そして、全面的な、分析者に依存します、というのは、そうすれば、場のどこにでも、感じたり、行動したりする、一人の人間が存在するからです。事実、分析者との原初的な同一化が生じます、しかし、患者は、そのことに気づくことができません。
 この状態は、到達されなければなりません、そうなってはじめて患者の、こうした同一性の非現実性が、認識されるからです。しかし、ここに到達するのは、まったく破滅的なことと感じられます。ーーですから、転移における妄想を、維持する必要があるのです。同時に、患者の、こうした同一性の内的現実としての面は、守らなければなりません。神経症患者で、内的現実と外的現実とが確確立している場合には、こうした同一性の内的現実としての面は、すでに自明のことですし、生存は、当然のことです。しかし、妄想的な人の場合には、現実を新しく認識することは、すべて、あらゆる事柄が破滅に瀕することと感じられます。つまり妄想的崩壊は内的現実と外的現実が、ともに、その基盤を揺さぶられることになるのです。
 この崩壊は地震のようなものであり、オーガズムに似ています。「苦痛のオーガズム」と呼べるかもしれません、すなわち緊張が頂点に達し、衝動的に放出され、その後に、休息がやってくるのです。それは苦悶状態ではありません、そこには、苦しんでいる人がいないからです。機能していた自我も存在しないからです。実体としては、一種の狂乱状態であり、放出、つまり、憤怒発作(acces de rage)です。そしてその表現形は、次のいずれかになります。一つは自己への攻撃、それは自傷行為や自殺企図になります。いま一つは、分析者への狂気じみた攻撃、です。それは、非常に、現実に危険な瞬間です。その動きが、外に、分析者向かうと、患者の感情や動きとは別に存在して巻き込まれない人物、との間に接触が生じることになります。つまり、分析者も患者の感情や動きを体験しますが、彼の体験は、患者の体験と異なっているので、それが新しい状況を作りだします。妄想は維持されることができず、もはや必必要ではなくなります。 そうした動きとともに、分化が生じてきます。妄想の放棄が始まるのは、身体の動きを発見したときからです。その動きは、衝動的で、発見的な接触への反応として生じたものです。これが回復の始まりです、というのは、一時的同一化が破綻し、二次的同一化が可能になり、それらを通して、再び出来事の結果が破綻し、二次的同一化が可能になり、それらを通して、再び出来事の結果を引き受けられるようになるからです。