うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アレクサンダーテクニークと『あいだと命』より

今日は休日を利用して、名古屋まで車で(いつもは電車で)、アレクサンダーテクニークを受けて来ました。
今日は半分くらいはセラピー的な話でしたが、非常に勉強になりました。アレクサンダーテクニークに、一番惹かれたのは、彼自身舞台俳優さんで、言葉が出なくなったことで自分自身の身体を徹底的に調べた事から生まれたことでした。
 自分自身の言語障がいも含め、睡眠の事も相談し、今回は呼吸法を教えて頂きました。
 ウイスパードアーでしたか?アレクサンダー・テクニークは呼吸法でも、発声法でもありませんが、アレクサンダー・テクニークの原理を使って、体全体、自分自身全体のワークをやって、それから声を出してみると、楽に声を出すことができるそうですが、そこまで行くには、相当時間が掛りそうです......。
 毎回、新しい発見があり、身体にも何らかの変化が現れてくれるのでもう少し頑張って行かせていこうと思っています。


 途中、トイレに行きたくなって、刈谷のサービスエリアに飛び込みましたら(笑)トイレに行く途中にこんな物がありました(笑)余計に.......。



 もうすぐサリヴァンを読み終えますので、本を6冊買って頂きました。
今回は図書館で借りて非常に勉強になった物にさせて頂きましたので、皆さんも読んで頂ければと思って居ます。着次第、事務所に持って行きます!

再び『あいだと生命』より

第一章 自他の「逆対応」2,安永浩の「パターン理論」 

 安永浩は一九六〇年以降、イギリスの無名の哲学者ウォーコップの『ものの考へ方―合理性への逸脱』(原題は『意味への逸脱―説明の本性』)に依拠して、統合失調症についての独学の「論理的・幾何学的」な基本障害論を構築している。
 安永は次のような(ウォーコップから示唆を受けた)認識を出発点とする。
《われわれは日常、「自」−「他」、「質」−「量」、「全体」−「部分」、「統一」−「差別」などの、いわゆるカテゴリー対の一群を知っている。〔中略〕それぞれ前の項をA,後の項をB,とすれば、一、A,Bは各々の見地において完全な分解をなし、第三のものCが介在する余地はない。また一方を欠いては成立しない。二、体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることはできない。
それは各人が体験自体から出発すれば直接「わかる」という他ない。自らが議論の出発点になりうるのみである。
(この意味では公理的、明証的である)。三、上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験に現われてくる故、導かれ、理解されうる。四、その逆は成立しない(!)。
すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない。この第四項は特に重要である。それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とはいい得ないことを意味している。》

 安永によれば、BのAへの関係は、Aがあれば必然的にBがあるという「論理的必然性」のそれであり、一方AのBへの関係は、Aの無根拠性のゆえに「条件的偶然性」のそれである。《われわれは生きている限り、「自」というものがどんなことを意味するかを、必ずしもつねに「意識的に」ではないが、定見的に知っている》。
《「他」とは「自」でないという以上の何ものでもなく、この順序によってわれわれは「自」「他」をともに了解できる》が、《「自」とはわれわれの体験にとって単に「他でない、という以上の何物か」を意味している》。
 安永は、《前述のような論理関係にあるA,Bという概念対の対立構造を、一般に「パターン」と呼ぶ(パターンは日常の俗語でありすぎるので、この場合は常にカギつきで用いることにする)》と定義した上で、《分裂病統合失調症)体験の真に「分裂病的」なる本質部分は、(正常およびその他の病的事態には決して起こらぬところの次のこと、すなわち)「体験の「パターン」において、A,Bの秩序が逆転すること[中略]」によってほぼ正確、統一的にあらわしうる》と考え、統合失調症に特徴的なさまざまの症状をこの「『パターン』逆転」によって説明している。
 例えば、統合失調症の特異的症状としてわれわれも重視している「作為体験」については、心因性憑依体験で「自分の中に、他者が入ってくる」のとは違って、「他者の中に自分が入ってしまう」のであり、「他者」がまず「自明」で・〈「自分」はそれにつかまれ、ふりまわされているものである故に、問題とされうるに過ぎない〉
 安永はその後、この「パターン」理論をさらに発展させて、独創的で精緻をきわめた「ファントム理論」を展開することになるのだが、それに立ち入るのは本論の範囲を逸脱することになるだろう。
 自他の「パターン逆転」についての安永の理論は、統合失調症に特有で他に類をみない種類の自己障害を問題にしている点で、刮目すべき論攷であったし、またそれを、自己の自己自身についての経験に本質的・イントリンシックに含まれている、他者に対するプライオリティの不成立として論じるという意味で、本来の一人称的・主観的な精神病理学を目指したものとして、高く評価することができる。

 しかし私は、この理論が発表された当時から、これが〈正常およびその他の病的事態には決して起こらぬ〉ものだとする安永の見解には、いささかの疑問を抱いていた。このような「自他のパターン逆転」はむしろ、健常者にも見られる深い宗教体験や美の体験の「本質部分」をなすのでではないかと考えた方である。たとえば道元の《自己をはこびて萬法を修證するを迷とす。萬法すすみて自己を修證するはさとりなり》や、これを簡潔に述べた西田幾多郎の《物来って我を照らす》は、自己と外界の事物との「パターン逆転」にこそ真理があるものだし、詩の世界でいうと、たとえば《「あらゆるもののなかに一つの空間がひろがっている。/いわば「宇宙内部空間」…….そして小鳥たちは/しずかにぼくらの体内を飛び交い、自由に伸びようと意志して/ふとぼくがそとに目を放てば、ぼくのうちにすでに青い一本の樹木が生えている」(R・M・リルケ)「ヘルダアリーン頌」大山定一訳》では、空間の全体と部分、内部と外部の逆転が美しく歌い上げられている》。となると、日常的な経験においてふつうに見られ、ウォーコップや安永が通常のパターン秩序と見なしている、「自が他に優先する」というかたちの「正の落差」ないし「順勾配」(これを「自>他」と表記しよう)は、じつは正常と異常には関わりがなく、実生活の利便のために脳が生み出した有用な錯覚とは考えられないだろうか。むしろ「他>自」の「負の落差」ないし「逆勾配」のほうが、実利を離れた真実に近いのかもしれない。しかし統合失調症の患者の場合、彼らが「よりよく真実を見ている」というよりも、より基礎的な「障害」のために「健全な錯覚」を構成できないでいるのだとは考えられないか。これが私の長年抱いている疑問の核心である。ついでにいうと、さきに述べたように統合失調症患者の多くが、自己の内面に現われた「他者」を外部の他人に投影し、いわば「外面化」して体験しているのも、この「錯覚」に基づいて習慣化された思考様式が、統合失調症患者においてまだその力を失っていないことを物語っている。





ウォーコップは、中井久夫コレクション3 「思春期を考える」ことについて (ちくま学芸文庫)にも出て来ますね。