うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

マーチンD-28と、アレクサンダー・テクニークと、【エスター・ビックは、1968年に、心的発達における皮膚の心的機能を記述した。彼女は説得力をもって、包容する対象を経験することの必要性を明らかに示した。】


 3連休(笑)でしたが、予定が大分前から入っていて、遠出は無理でした(笑)
名古屋に出たついでに、石橋楽器さんで、マーチンのD−28を弾かせて頂きました。
本当は45を弾きたかったのですが、15年落ちの28でもこの値段......。

 親分に写メを送ったら、良い体験したね......。で終わりました(笑)
手取り12万円の身では、買えませんね(笑)親分は4年間、手取り10万円だったので、強くは言えませんでした。
 まあ、時々楽器屋さんに行って弾かせて頂きましょう!

 アレクサンダー・テクニーク協会の総会?みたいなのが先日、東京であったようで、保険適用にできないか?みたいな話になった様ですが、今は何でもエビデンス・ベースなので、時間がかかる治療法は適用になるのは難しそうです。カイロプラクティックの方が、後遺症などの問題が大きくなってきていて、厚労省が動き出しているとの話もお聞きしました。エビデンスを沢山集めて、ヨーロッパの保険適用になっている国に行って、その関係者を呼んできて、厚労省の偉いさんの前でプレゼンするしかないのでしょうか?
 何でも速効性が求められる時代ですが、体を整えるのも(アレクサンダー・テクニーク等)、精神を整えるのも(精神分析等)時間が掛りますが、一度改善されれば、長期間その効果があると、エビデンスで出ていて、アレクサンダー・テクニークは、ヨーロッパでは保険適用の国もあるようです。
 何でも速効性や無料を求める時代。本当にそれで良いのでしょうか? 例えば、ギターを手に入れても、そのギターが一番いい音が出るように弾けるようになるまで、何年もかかることがあるし、作品を作るにも、ビギナーズラックはあくまでビギナーズラックだし、時間をかけて技術とセンス(こちらを磨く方が難しい....)を磨かないと本当に人に感動を与える事ができないし、無料というのも(お金の生み方が色々とあるのは分かりますが)、自分的にはおかしいと思ってしまいます。清貧生活を送らせて頂いていますが、きちんとした物には、きちんとした対価を支払いたいと思うのは当たり前のことではないでしょうか? まあ、自分が職人だった時には100円ショップが出来た時には、伝統産業は終わったなと感じました。
 政治も忖度がなんだかんだと騒がしいですが、自分が選挙に行くときには、それを望んで行っていませんか? まあ、他人の事は腹が立つだけでしょうね(笑)というような話を名古屋でしてきました(笑)




 電車でメルツァーを読み終え、アルバレズに入りましたが、アップは次回までやらせて頂きます。
アルバレズに入ったら、急に読みやすくなったので(内容的には難しいですが....)ちょっとほっとしています(笑)
 今回と次回は、クライン派のまとめ的になると思われますが、大事なポイントなので、自分の復習のためにアップします。


第10章 おわりに
ドナルド・メルツァー
〜さて、まず理論的な問題を論じて、それから子どもたちに戻ろう。赤ん坊の心的生活の始まりに対してのフロイトの考えにこれまでのところ、唯二つの点が追加されただけである。フロイトは、一次的自己愛と、満足させてくれる対象との同一化が即時的で自動的である状態と考えた。これを最初に発展したのが、メラニー・クラインの、自己と対象と起源的には乳房(乳房としての母親を意味している)の原初的が分裂と理想化の記述である。これが働くことで、子どもは良いと悪いという概念の基礎を築く。それはまだ評価の基準としてはあまりに誇張され早急ではある。これはクラインをよって健康な発達に至る対象関係の開始を印づける必須なものと考えられた。フロイトの考えの二番目の補足として、エスター・ビックは、1968年に、心的発達における皮膚の心的機能を記述した。彼女は説得力をもって、包容する対象を経験することの必要性を明らかに示した。赤ん坊は、身体-自己の解体を伴うことなしに、覚醒した状態で母親の腕から下に降ろさせることに耐えられるように、それ自身の皮膚の中に十分に包容されていることを感じるために、そのような対象に同一化できる必要がある。彼女は欠陥のある心的な皮膚がが自我の強さに対してどのような影響を及ぼすかを調べ、いかに代理-人口皮膚機能が、その欠陥を支えるために設立されるかを明らかにした。ビックはこれを適切な分裂と理想化にとって、そしてそれゆえ良いと悪いの混乱の十分な解消にとって必須のものであるとみなした。
 本書の臨床的記述の章の膨大な素材は、私たちが扱っている子どもたちにおいて、発達におけるこれら二つの段階がはじめからいずれも失われているか、不適切であることを明白に示している。しかしながら、私たちは通常の迫害不安、妄想的な疑惑、そしてサディスティックな倒錯の増殖を見出だしてはいない。逆に、子どもたちは優しく、敏感で、容易に絶望的な抑うつの中に放り出され、遍在する競争相手の赤ん坊に脅えているというよりもむしろ怒っている。〜


メラニー・クラインは分裂過程を、それをおこなうことの背後にある目的ないし動機に関係なく、破壊衝動によって暴力的に引き起こされているものと見なした。分裂の結末は、彼女には、常にある程度、対象を傷つけるがゆえに罪悪感と後悔に原因であるとみなされてた。そして分裂過程を研究すれば、その背後に横たわっているかもしれないソロモンの知恵にもかかわらず、言い渡され執行された判決という性質をまさに有していることは確かである。そこには「事実と理由を性急に求めること」そして「X問題に対する最終的解決」の探求がある。
 しかしながら、分裂過程は外界での行動を可能にするような決断にとって必要であるということもおそらく本当である。すべての決断はその選択肢の中の一つの計画の実行を意味する。それは試験的なもので、危険を孕み、自分自身にとっても他者にとってもある種の冷酷さを含んでいる。〜