うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

Y.W.C.Aさんと、【不安は普遍的な現象なのだから、不安が出生の特別な場合に、すなわち外傷的出生に直接的には相関するはずがない。】


 今日は、早朝から名古屋に行き、アレクサンダー・テクニークを受けて来ました。
会場のY.W.C.Aさんには、いつも素敵な言葉と絵が飾られています。今度行ったら、作者を聞いてみたいと思っています。
 終ったら直ぐに豊橋に向かい、法務局に行きました。名古屋でゆっくりしたかったですが、仕方ないですね.....。
色々仕事も山積していますが、久し振りの休みなので(笑)帰宅後1時間くらいギターを弾きまくりました(笑)毎日これくらい弾けたら、もう少し指が動くのにな.....。





 本は電車で沢山読め(往きは半分寝てましたがw)、4章まで進めました。
前後を読み込まないとちょっと難しいですが、個人的に大事だと思えたのでアップしました。
 次回は、もう少し核心に迫った箇所になります。


総括
 〜不安は普遍的な現象なのだから、不安が出生の特別な場合に、すなわち外傷的出生に直接的には相関するはずがない。
 不安症候と出生外傷の詳細との間には臨床的に関係がある、という周知の事実を解く鍵は、出生外傷がその後の迫害persecutionのパターンを決定するということかもしれない。そんなふうにして出生外傷は、不安が特定の場合に生じ、そのあり方を間接的な方法によって決定しているのである。 この理論の副作用としては、かなりありふれた妄想症paranoiaで、遺伝的ではないけれど生来的なものを観察する方法が提示される。私が明確にしようとしている点は、Greenacreの2つの論文の内容および表題の中にも含まれている。彼女は、不安を決定する素因について書いている。しかしながら彼女は予測される迫害パターンを外傷的出生体験が決定する、とは正確に述べてはいない。示唆されていることは、外傷的出生体験が妄想的素質のパターンとその存在とを決定しうるということである。言い換えれば、分析における安心感とは患者の側の口唇サディズムや良い対象へのアンビバレンスの十分な受容によってのみ生まれる、というメラニー・クラインの妄想的不安paranoid anxietyの理論をもし受け入れるなら、妄想の歴史は出生にまで遡るというかなりありふれた場合に関してどう考えるか、というようなことまでも考慮に入れなければならない。私が提案したいことは、精神分析的作業に基礎づけられているのであるが、歴史が出生までに遡れる一定の症例は、迫害についての一連のパターンとともに迫害的念慮への強い素因がある。そういう場合にはおそらく妄想症は口愛サディズムの結果ではないだろうということである。換言すれば、私の考えでは口唇サディズムを最大限に復元するような線に沿った妄想的分析が完全な解消をもたらされないような、潜伏性妄想症の症例が何例かある。なぜなら分析状況の中で外傷的出生体験を追体験することが、それに付け加えられる必要があるからである。環境的因子が置き換えられる必要がある。 私の述べたことは、理解していただけるだろうか?患者に出生外傷をただ追体験できるようにすることでは、どのような妄想症例も分析することはできない。妄想症例の1%において、出生が外傷的であり、また基本的な“存在していること”の妨げになると予測されるようなパターンを乳児に据えつけることになる、という事実が加えられるということを、私はただ示唆しているのである。さらに経験を積むなら、非常に注意深い病歴聴取とその臨床像に従って、そのような症例を他の妄想症例から選別することができるだろう。〜


 知性が精神とは性質を異にする何物かとして働き始めるのは、耐えがたい時期の境界線に関係してであるように思える。反応せざるをえなかった数々の侵襲をあたかも知性が収集するかのようであり、また侵襲を詳細かつ順序正しく保存しているかのようである。こうして存在し続けるという状態が戻って来るまで、知性は精神を保護し続ける。もっと外傷的な状況では、知性が過度に発達し、精神よりもずっと重要なものになることさえありえるようである。そして出生に続いて、知性は迫害を予測し続け、外に出かけていくことすらある迫害を収集し、保持しようとするためであり、精神を保護しようとする目的をまだ持っているのである。この防衛の価値は、その個人が分析に最終的に出向いてくる時に示される。というのも、その分析的設定において、抽象的深く収集された原初的な迫害が想起できることを、私たちは見出だすからである。その後やっとのことで、患者は迫害を忘却することができる。