SDGsは企業PRに使われ、真の環境問題や貧困の解決策にならない【山口周×斎藤幸平】と、【人間の創造性は、市場原理主義をはみ出すような、他者や世界への憧れという人間固有の欲望に基づいている。また、死すべき存在である自分を、他者の支えによりながら見つめ、記述し、共有していく、無意識的なものに照準した文化に基づいている。】
しつこいですが(笑)、空が今日もキレイでしたね!ひこうき雲が増えた気が今日もしましたが、調べてみます。去年の今頃は財務評価論で航空業界の評価をやっていました。リーマンショック時と比較しましたが、航空業界はそれ以上の打撃ですね。劣後ローンとかの問題ではなくなった気もします。プラットフォーム事業や地方創生とか謳うなら、農家ではなくて農協に社員を派遣するように政府が促すようなアクションをなぜ行わないのか?農協は金融ばかりに目が眩んで、農林中央金庫に鉄槌を下ろされたのにこりませんね。日本の全体最適はバラマキだけては解消されないし、安心して働け、安定した収入がある社会システムを構築しないと何も変わりません。
ケインズの言うところの金利生活者の死を迎えなければいけないのか?
ネオリベラリズムの暴走を止めなければいけないのか?
下記の記事を見ていて、いろいろ思い出しました。
気候変動も地球の歴史(宇宙の歴史)も頭に入れて考える必要もありませんかね?
斎藤幸平氏(以下、斎藤): SDGsが目標として設定されたことで、持続可能性や貧困の問題、社会における公正さ、地球の環境問題について「みんなで考えていこうよ」という考え方が普及した。企業も対策を求められるようになった。これらは一歩前進かもしれません。
しかしその一方で、SDGsが、この危機の瞬間に必要なものになっているのかというとまったくなっていない。なぜなら17のゴール・169もの項目があり、どんな企業でもそのいくつかについて「うちはやってます」と簡単に言えて、儲けのための企業PRに利用できる構造になっているからです。
本来向き合うべきはビジネスモデル
例えば、最近だとマクドナルドが「フィレオフィッシュは天然のアラスカ産スケソウダラを使っているからSDGsだ」と言い、ユニクロも「うちのウルトラライトダウンはリサイクルしているからSDGsだ」と主張し、くら寿司も天然の魚を使うということで似たようなこと言い始めた。何でもかんでもSDGsに当てはめてしまっている。
でも、フィレオフィッシュがSDGsにかなっていたら無限に食べていいのか。ユニクロでじゃんじゃん服を買っていいのか。違いますよね。本来向き合わなければならないのは、こうした企業のビジネスモデルそのものです。今のファストフードやファストファッションのシステムこそが、地球環境を破壊している原因です。じゃんじゃん作って、すぐ捨てる。大量生産・大量消費・大量廃棄の問題こそが、解決しなければならないことです。
ところが、SDGsで満足してしまえば、環境破壊を必ず伴う資本主義システムを長続きさせることになっている。際限なく利潤を追求する資本主義のもとでは、環境危機を乗り越えられないという問題の本質から人々の目をそらさせる結果になるのです。
樫村愛子先生の引用に入ります。小此木先生もそうですが、樫村先生のはもう少し時代は近いですが、現在にあてはめても全く問題ないですね。樫村先生の本はこれが4冊目でしたが、1番新しい本と比べても一貫性を感じました。精神分析、特にラカンが根底にあるからぶれないのでしょうか?個人的にはラカンは難解ですが、樫村先生の本を読ませて頂いて、少し理解出来るようになりました。
簡単にマクドナルド化と言ってしまいますが、この本を読んでいると、その深さに気付いてしまいます。
なぜ伝統や文化が求められるのか
樫村愛子著
はじめに
〜なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るかのを、人間の成長原理や、人間が他者や社会と関わる構造に遡って検討する。
人間の創造性は、市場原理主義をはみ出すような、他者や世界への憧れという人間固有の欲望に基づいている。また、死すべき存在である自分を、他者の支えによりながら見つめ、記述し、共有していく、無意識的なものに照準した文化に基づいている。
また、人間にとって「再帰性」そのものが、本書のもう一つのキーワードである「恒常性」という、他者や社会をベースにした原理に依拠していることを確認する。人間が新しいことに挑戦するためには、他者や世界への信頼が不可欠なのである。
さらに、言葉や知性の最も生産的な機能である、新しく自由な結合作用そのものが、人が持つ固有性や多様性の蓄積と、他者との交流によっていることを確認する。~