散歩と、マスクで熱中症のリスクは上がるの?と、【しかし精神分析は、症例の検討から、これ自体全く自明ではない、いわば一つの「社会的・人工的」構造であることを提示するものというのも、言語と主体は元来別のシステムであり、それは他者を通じて言葉が与えられる微妙なシステムを通じてのみ、結果的に結合することができるからである。】
午前中に雨が止んだので、散歩に出かけました!海風が気持ち良かったです!
午後からは音楽を聴いたり、お風呂!ですね。ゆうちゃんが入ると、ナイヤガラの滝のように浴槽からお湯が..........。
個人的には、入浴介助もコロナ以前からやっていたので、全く苦になりません。が、慣れない方々は大変ですね!
樫村先生の本に戻りました。今日は産業心理学の講義がありましたが、フロイトを批判的に見る先生でした。少し残念な気持ちになりました。フロイト批判される方々は、フロイトをそのまま使おうと思うからではないでしょうか?フロイトを今ここで起こっていることに応用できなければ、無理ですよね?
6 ラカン派的理論枠組に向けての従来理論の検討
〜「コミュニケーションの可能性」という問題において、従来の枠組みは、コミュニケーションの最も基底的要素であるはずの「主体」や「言語」の構成について、全く疑義をもっていないのだが、じっはこの、主体と言語の構成、そして主体と言語の結合という問題と、コミュニケーションの存立可能性は深く関与している。
精神分析は、この問題を症例の検討から発見した。この点は、デヴッドソンの真理論とも関わることであるが、意味作用や言語の使用能力とは、何ものにも裏付けられないはずの、自身や世界の「真理」を措定できる能力と通底している。
人とのコミュニケーションの可能性とは、まずもって、このように主体や世界の構成に関わるのであり、さらに主体と言語の結合に関わるのである。
従来の社会学理論では、社会の存在やコミュニケーションの存在が自明であったように、「もともと他者から与えられた言葉を自分のものとして使え、自分の言葉や意識が自分のものだという感触があること」は、やはり自明であった。
しかし精神分析は、症例の検討から、これ自体全く自明ではない、いわば一つの「社会的・人工的」構造であることを提示するものというのも、言語と主体は元来別のシステムであり、それは他者を通じて言葉が与えられる微妙なシステムを通じてのみ、結果的に結合することができるからである。〜