昨日はスーパームーンとのことでしたが、講義が終わって外に出てみたら、終わっていたのかな?でも、昨日もきれいな空でした!
今日はお天気は悪かったですが、うたたね内は、笑顔と笑い声が溢れていました!
下記は、唯一メールをやり取りしてくれる院生から送って頂いた記事です。
興味深いところも沢山ありましたが、現場にいる人間として下記の2つは間違っていますね。
これは本当にそうかな?
そしてここからが肝心な話なのだが、実は福祉には主に二つの極端な業者が存在する。一つ目は施設がボロボロであるがゆえにボロ儲けしている業者だ。
こちらは間違っていますね!当NPOは法人税を約60万円支払いました(笑)。
「非営利」は法人税がかからないため、なかにはその分まるまる株式会社よりも潤っている可能性もある。
こういう記事を......と思ってしまいました。うちは音楽やアートをきちんと取り入れていて、ダサくない(笑)ですよ。それに支援も精神分析の対象関係論や人間関係論を軸にして、メンタルの部分もきちんとサポートさせて頂いています。
大分前に第2次安倍内閣でしたか?の所信表明で使われていた『変化は流れの中にある』を、全国紙の記者が岡倉天心の言葉だと書いていましたが、それは岡倉天心が老子からの引用とはっきり書いていました。ワイドショーや今のマスメディアさんは大丈夫でしょうか?と、ふと思いました。
偶然でしょうか?下記は上記に近いことが書かれています。
2コミュニケーションの構造
コミュニケーションと主体の意味作用
1はじめに
〜一方、今日のコミュニケーションをめぐる状況を見ると、コミュニケーションが依拠していた共同体や家族等が解体しだし、その内部に暗黙のうちに包摂されていたコミュニケーションが、人々のあいだでその自明性を失い出している。
家族の機能が切り詰められ、メディアコミュニケーションが社会を覆いつつあるように、従来のコミュニケーションの機能は人工システムによって代替され、そこではコミュニケーションや他者の機能は極度に切り詰められ、「純粋化」し始めている。コミュニケーションと他者は、家族の存在、あるいは「愛」というものの自明性が根底的に疑われだしたのと同じように、その存立可能性そのものを、歴史的に初めて問われているのである。
つまり「具体的他者」が担ってきたいくつかの機能を、人々が必要としなくなることで、人と他者との具体的関わりが、いったいどのような可能性において残されているのか、それが主体にとってそもそもどのような作用を持っているのか、ということが問われ出したといえるだろう。
そして他方、単一の共同体によって保証されていたコミュニケーションの自明性が、テクノロジーの発達や資本主義の拡大に支えられた社会の国際化によって崩れる中、異文化間のコミュニケーションという、新たな問題の考察のための枠組みも求められている。〜