うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夜勤前に本を借りました。


今日は夜勤なので午前中は、会議のレジメの補足などしていました。
お昼代をもらっていなかったので(笑)親分におにぎりを買ってもらったついでに図書館で調べ物をして来ました。
 北山修先生の『幻滅論』もついでに探したら、閉架にあり借りて来ました。
 レジメにクラインの理論を少し書かせて頂きましたが、親分から分かるような言葉で書け!と言われましたが、下記の北山先生の言われるように、日常語での言葉で、専門家も書けていないので、沢山の本を読んで、シニフィアンとはこんな感じか?ファルスはこんな感じか?みたいに自分で感じて行かなければいけない部分もあるのかな?と思いました。
 勉強になると思ったので、アップさせて頂きました。
『クラインーラカン ダイアローグ』はもう少しで読み終わります。
段々難しくなってきました……。





『幻滅論』北山修
はじめに
Ⅰ 言葉にすること
1 言語的治療として
言語化
 精神分析的な治療では、検討される素材は分析者や被分析者により言葉で報告されるものがほとんどで、無意識内容の一部を意識化することを目的として、これを「意味」として言葉でとりあげることを治療方法とするのが特徴的である。そのための代表的技法を「解釈」と呼び、その典型を夢分析によって示すなら、夢を見た人が言葉で語る夢の顕在内容と、それについての連想とを手掛かりにして解釈の言葉を通して潜在内容を明らかにすることになる。
 その治療効果に関する説明、または理論的根拠としては、身体的、行動化を通して症状になっていた無意識の意味を言葉へと変換することで意味の回路を変更すること、あるいは抑圧されていたエネルギーの蓋をとり「開放する」という発想がある。そこで具体的に得られるのは、劇や音楽の豊かな文化活動でも発生するカタルシスであり、そこにあるのは、押さえつけられていたものが表されて解放され「すっきりする」というイメージである。ゆえに、精神分析家は、もうひとつの言葉、無意識の言葉を話すことになる。
 次いで、精神分析家は、わけの分からない痛みや葛藤、荒唐無稽な思考や空想、曖昧な不安、更に危険視される欲望と衝動に名前をつけて、有機的関連のなかで整理するのである。〜

〜もちろん、言葉は他者との交流を媒介してこそ、その使用の第一の目的が達成されるはずの媒体でもある。患者のニードに応えて、患者の問題を照らし返す「鏡」として機能しようとする分析家の言葉は、被分析家の自己観察に向けて語られ、共同作業を経て発見され共有される言葉は「洞察」というきわめて貴重なものを手に入れるための媒体となる。こうして自分と出会い、自分を見つめ、自分を知り、というさまざまなことを、精神分析の言葉が可能にすることが期待される。
 精神分析学における言葉の役割は無数に挙げられる。精神分析とはきわめて言語的な精神療法なのである。精神分析におけるこの特徴を際立たせるために、また、秘められていた考え、言葉になっていない想い、そして隠されていた内容を言葉にするという技法的側面をいっそう強調するために、「言語化」(verbalization)という言葉を用いることすらある。



開業と日常語の使用
 また精神分析には、多くの医学領域と同様、領域の「専門家」のための理論があり、それを語る為の言葉、つまり理論用語、または専門用語というものを生み出してきた。しかし、これは専門家どうしの交流においては役立つが、現場の患者との具体的な交流では役に立たないことが多い。ここに、症例報告だけでなく、理論においても日常語を生かすという必然性が生まれる。
 今から百年ほど前、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトが精神科治療のためのオフィスをウィーンに町なかに開設して、ノイローゼを対象にした、それは、いわば心の「はらいた、かぜひき」をまちの中心で治療しはじめたわけで、そのとき、非日常的な内容の精神医学はその日常に向け大きな一歩を踏み出したことになる。あれから一世紀足らずの間に、分析家が映画や小説に登場するようになった。すでに欧米の都市では開業し対話を治療技法とする多くの精神科医やカウンセラーが出現し、非日常的に処理されやすいものを町の日常性のただ中に置くことで、改めて正気と狂気の間の橋渡しの場を設定している。この日本においても、大都市においては外来中心の精神科クリニックというものが存在するという事実は、すでに広く知られるようになってきたが、この進出を後押しして促進するのが精神分析の言葉である。
 日常性のなかで実践するために輸入される精神分析技法のうち、紹介が後れをとってきたのが、その「日常語の使用」の部分であったと言えよう。たとえば、フロイト論文の英語訳について検討したブルーノ・ベッテルハイムの指摘になぞらえば、精神分析の「自我」は「私」でありフロイトの言う「エス」(英語ではイド)は「それ」であるはずである。フロイトの翻訳問題を検討する妙木浩之は、日本語で「自我とエス」と訳されている論文を「私とそれ」という新訳で読みたいと語るが、私も同感である。
 しかし、日本語にも心を描写するための言葉が豊富にありながら、臨床の研究者たちが日本語を生かすことを徹底するのは、やはり特別なことであった。ただその逆の効果はあった。たとえば「神経を病む」の「神経」という言葉だが、これは杉田玄白ら解剖学者の造語である傑作のひとつで、あっと言う間にひろまって日常語と化した。他にも、「神経衰弱」から最近の「アイデンティティ」「コンプレックス」まで、精神科医や心理学者が使う言葉が次々と日常語になっている。つまり日本語のこの領域では、専門語が日常語になることが多い。
 心理関係の書物は医学書に比べて、一般の人たちだけではなく、他の専門領域の研究者たちにも読まれやすい。にもかかわらず、日本語、それも日常語を生かした概念化が、日本の精神分析精神病理学では不自然に少ないと言える。日常語で精神分析学を語るとなると概念が曖昧になりやすいという反論もある。それぞれの方法に一長一短があるが、少なくとも欧米の分析家が日常語の多義性を生かして物事の概念化を行ってきたことからも、学ぶことが多いと言わねばならない。


日本語で考える
 一方、精神分析家の書き方に注目するP・マホーニィという研究者は、実に独創的なフロイト研究を成し遂げつつある。多くの科学論文が、明確な概念で考えそれを反省された思考として記載する「考えられた考え」を記しているのに対し、マホーニィは、とくにフロイトの論文に典型的に示されるように、考えながら書くという書き方が用いられ、「考える考え」が展開されると指摘し、後者のような分析家の書き方や文体を「前進処理的」(processive)と形容している。
 考え方というものの歴史における精神分析の価値を考えるなら、このような前進処理的な機能を発揮するためには、自らの国語や文化を生かし、そのなかで考えることが必要になると思う。実は、自国語を十分に生かす分析家の言葉の使い方を、私は「国語発想論」と形容し、その役割を「橋渡し機能」として検討の対象にしてきた。とくに臨床ではこれらを十分に生かすことを私たちは心がけねばならないし、理論面でもそれがますます実現することが私の願いである。