うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

11月のカマキリと、Tシャツの試し刷りと、《鏡像段階》(クラインーラカン ダイアローグより)


 今朝、ひーひー王子との散歩に行こうと思ったら、玄関にカマキリがいました。メスでしょうか?まだ産卵していないので生きているのでしょうか?昆虫や害虫は積算温度で活動しているので、今までが暖かかったのでしょうか?
 夕方にはいなくなっていました。


 B−SproutのTシャツの型を作り、試し刷りを行ないました。
スルクスクリーンは、原図がきちんとできたらほぼ完成ですが、親分が苦しみながら(スルクスクリーンの仕組みがよく理解できていないので)完成させました(笑)。原図は晴君、字はまりちゃんで、親分がひっつけました。
 簡単そうに見えますが、実は大変です....。
型はおっちゃんが作りました。型が大きいので、刷るのも経験がなかったら失敗します。
 今回は、簡易な型なので、この大きさが限界かもしれません。


 こちらが、肩(背中)に刷るものです。こちらは親分がデザインしました。ついでに残りのバッグに刷ってみました。




 久しぶりに作業机に向かったら、バッグにつける基盤たちが待っていました......。作らねば........。


 予告通り『胸像段階』の個所をアップさせていただきます。
難しいですが、その分、ためになると思われます。
 一番最後の赤字の部分だけでも読んでくださいね!

鏡像段階
 しかし、ラカンにとって鏡の重要性は、母のまなざしのさらに上を行くものでした。赤ん坊が自らの反映を見出す鏡は、赤ん坊が世界についての知覚をひっくり返すという点で決定的に働くものです。ラカンによれば、この出来事は生後6ヵ月頃に起こるということですが、大変面白いことに、その時期はクラインの抑うつ態勢の開始と同じ頃です。しかし、ラカンの場合、自分自身のイメージを鏡の中に知覚する経験は、母の目の中に自分のイメージを見ることとは違うものであり、胸躍る、喜びに満ちた経験なのです。ここでははじめて赤ん坊は自分自身を母から分離して、いわば別の顔を持つものとして知覚するのです。しかし、それよりも重要なことがあります。赤ん坊は自分を、母に助けてもらえないなら座っていることもできないような寄る辺ない被造物とは知覚せずに、人間全体として知覚するのです。赤ん坊はここで、その前の段階に母を通じて自分のものと認めていた人間というゲシュタルトを、自分自身に適用します。ラカンの言う「鏡像段階」においては、赤ん坊は人間であり、自分自身を実際よりもいっそう完全なものと見るのです。つまり赤ん坊は、その身体によって独り立ちできているときの自分の像となるのです。鏡は人間の力と美の整形外科です。ナルシスが自分のイメージのなかに認識し、そのイメージに同一化するのです。赤ん坊依存的であること、および自分の身体運動を調整できないことと、鏡で知覚されるような完璧で自立した全体へと想像的に急き立てられることとの間には不均衡があります。
ラカンによれば、これは自我の起源です。すなわち、自分自身のイメージへと疎外されることなのです。自分の寸断されたあり方と鏡の中でのその反映との間の、こうしたさらなる分裂は、分離と統一の弁証法のなかで、新たな心的段階を構成します。再びナルシスを考えてみていただければわかりますが、鏡は分裂させるだけではなく、二重化させます。世界はもはや幼児の延長ではなく、二重化されたものです。他者は自分自身の分身となるのです。分身とのこうした関係は常に衝突をもたらすのです。というのも、他者は自分の分身であるなら、他者はライバルでもあるからです。鏡は自分自身との敵対関係の幕を開けます。同一化の対象とは、増悪と攻撃の対象でもあるわけです。このことはパラノイアの場合に顕著です。パラノイアでは、愛すべき人、すなわちパラノイア患者が同一化した人が迫害者となって彼を取り除こうとしたり、その逆のことが起きたりします。これは、他の子どもを殴った子どもが、殴られたのは自分であると主張するような転嫁症という現象です。〜
〜しかし、分身が常にそこにあるわけではありません。それは、乳房の早期には、乳房の不在は泣き声とともに受け取られました。さもなければ、乳房を(あるいは乳房から奪われた満足、快を)幻覚するか、(イヴァナが拳や親指を使ったように)自分自身の身体を代わりにするか、手近な別の対象や人物を代わりにすること(母親が朝ご飯を終えるまで、イヴァナは私の親指をしゃぶっていた)によって否定されました。フロイトは自分の発見を実行に移すに当たって、幼児の観察に関する講義を行いませんでしたが、かといって、幼児の観察なしにすませたわけではありません。フロイトが観察したのは、自分の孫でした。母親はそのとき不在にしていたのですが、するとその子は、糸巻とそれに巻きついている紐とで一人遊びを始めたのです。糸巻をベッドの下に投げ入れて消し、次にそれを引っぱり戻しては、再び現れさせました。この子は一歳半で、はっきりしない言葉しか話せませんでしたが、糸巻を放り投げるときには「フォルト」(fort)、引っ張り戻すときには「ダ」(だ)という声を発しました。フロイトはこれらの音をドイツ語における「行ってしまった」と「戻る」という言葉として解読しました。この幼児は、自分が対象の現前と不在を支配できる遊びを作り、いわば状況を支配することによって、母親の不在を扱ったのでした。フロイトが孫の声を間違って解釈していたにせよ、孫はやはりこの遊びを通じて、愛すべき対象の行き来を象徴化していたのです。フロイトは、この子が象徴化しているという事実、つまり母親の不在を遊びのなかで代理することで認識しているという事実に気づいたのです。ラカンはこの観察のなかに、幼児の心的発達の決定的な契機を見ました。ここで分離がはっきりと表明されているのですが、それは他者によってではなく、他者が不在の時の子ども自身によってなのです。この例においては、子どもの統一体への要求を表わすものは、はっきりと言い表されていない泣き声ではなく、意味に満ちた音と遊びに満ちた行動なのです。ラカンの言う「フォルト/ダー」の位相は、新たな現前/不在の弁証法を開き、そこにおいて不在は心的な代理を見出すのです。それは心的機能にまで高められた分離であり、この心的機能において、空虚な場が主体のなかで声を見つけるのです。ここから言語の世界が始まります。ここで、言葉は行方知れずの対象の代わりをし、糸巻は象徴の機能を引き受けることができるのです。ラカンがこれを象徴的秩序と呼ぶとき、それは言いようもなく、寄る辺のない幼児の世界を構造化する秩序のみを意味しているだけではありません。はっきりと言い表わせない幼児期の経験を現在にもたらす秩序をもまた意味しているのです。これこそがフロイトの「事後性」であり、この作用において、かつて起こったことが、後にも起こることによって再解釈され、形を与えられるのです。ラカンと同様、フロイトにとっても、精神分析とは人間の生活史、トラウマ、運命といったものを、言語の力によって再び解釈し、再び秩序づけるものなのです。これこそが、精神分析的な儀式の核心なのです
 言語とはそこにないものを表わすためのもっぱら人間的な方法です。事物の場に言葉がやってくるというだけではありません。言葉はまた、事物の世界と独立な関係を持つシステムの一部でもあるのです。ヴィトゲンシュタインと共通していますが、ラカンは世界が決して直接に離隔も理解もされない、少なくとも肉体的、精神的仲介物の取次ぎによってしか知覚されないのに、私たちが世界についての見解を持つのは、言語のおかげであると考えました。哲学や科学、心理学は常に世界の理解を決定するようなカテゴリーを作ろうとしてきました。空間、時間、意識、感覚、神経システム、情動などです。フロイトの考えた「精神分析」の発見は、〈無意識〉とは、意識的に直接言うことができず、夢や言い間違い、否定などによってしか言うことのできない何かを表象する象徴のシステムであるということでした。ラカンにとっては、私たちの意識が言うことのできないものとはこの欠如であり、つまりは生命と私たちの存在の限界を明らかにする絶対性への、言わんかたなき欲望のことなのです。それは対象への関係ではなく、言い表わすことのできない死への関係なのです。クラインが理論のなかで書きとめていないにせよ、クラインのシステムは三角形のシステムです。というのも、そこでは子どもの心的過程が、母と子の閉じた前言語的な(プレバーバル)世界の彼岸にある衝突を通じて展開されているからです。ところが後のクライン派の人びとは、より早期の発達段階において後の精神状態への手がかりとなるものとしてフロイトが父に与えた重要性を放逐してしまいました。ラカンは父とエディプス・コンプレックスの重要性を、母子の囲いの外にいる他者に子どもが会うことになる創設的な契機として改めて導入しました。一対一の関係の限界の象徴として父が機能するのです。共生的関係においては、乳房と口の前言語的な自己満足のなかで世界が閉じているという錯覚があります。この錯覚において、私たちの精神の安定を得るために必要な、欲望された対象をめぐって、世界は閉じているのです。しかし、この錯覚は父によって表わされる第三の要素の介入により、破壊されます。すでに述べましたが、母親もまた絶対的要求の法に従属する主体なのです。子どもと同様、母親も他者からの分離に従属する主体なのです。子どもが母を越えて何かを欲望するのと同様に、母親もまた子どもを越えて何かを欲望していると言ってよいでしょう。この「越えて」ということがなければ、母と子は、貪欲で攻撃的な幻想が(たとえ愛するあまりとはいえ)現実となるような態勢のなかでお互いを罠にかけあうことになります。ラカンも、母の現前とその部分対象によって媒介される世界との前エディプスの段階が、(母との一体化の欲望のさらに進んだ版である)母との近親姦的欲望に主体が関係する位置を決定し、この欲望の禁止を与えるのです。エディプス・コンプレックスとは、主体が自分の欲望を言明することで、その欲望の責任をとるべく呼び出される場である言語と、母を所有し、かつ母に所有されるという言明されない欲望との間の衝突を示す標石なのです。
 子ども時代の神経症は、この道を進んでいくことの困難さの故なのです。これは、程度の差こそあれ、だれにとっても困難なことです。エディプスの発達を成し遂げるという多かれ少なかれ苦痛の伴うこの試みをフロイトは「幼児神経症」と呼びました。しかしこれは、一般的に信じられているような、子どもの発達にとっての障害物などではありません。エディプス段階を発達させず、克服できない場合には、成人期に神経症となる可能性が生じます。
 臨床的観点からすれば、エディプス期が解決をまったく見つけられなかったり、不安定な形、たとえば否定、逃避、結果の偽りの受け入れなどによってしか解決されなかったりする場合に、真正の神経症が始まります。分析中に、以前の幼児期の段階への退行が、エディプス葛藤に結びついて、あるいはその葛藤の帰結として起こります。成人が口唇段階、肛門段階に退行すると言われることの意味は、患者がエディプス段階から移動しておらず、まだ四歳児とか幼児のままなのだということではありません。ただそれで、どこで間違ったステップが踏まれたかが確実に示されるのです。患者はエディプスの謎かけを解かずに移動してしまっているのです。〈無意識〉の問いを答えないままにすることで、移動したのです。しかし、答えられなかった問いの執拗さが示されるところにこそ、精神的な溝がその埋め合わせを見つけ出しています。退行は実際の幼児期の段階について多くを教えてくれるものではありません。退行が教えるのは、幼児が世界の要求と提供物に出会ったときのことについてであり、その出会いが失われていることについてなのです。退行とは、別の快のために快をあきらめることへの抵抗が生じる地点の印なのです。欲望がどこで運動を止め、選択の責を逃れながら反復のなかに差し止められているかが示されるのです。ラカンにとって、〈無意識〉はかつて開かれた問いであり、症状によって沈黙させられている問いです。この沈黙は、症状が作り出す過剰な雑音によって埋め合わされているだけなのです。分析主体からの対抗的な要求と祈願の裏で、開かれた問いの雑音を聞くことが分析家の仕事なのです。分析家は開かれた、未解決なこの問いを認識しなければならないのです。