今日はアトリエ・カーグの日で、同時に歌のないバンドクラブも行っていましたが、スマホ初心者の親分は沢山写していたのに、結局2枚しかないとのこと。バンドクラブは自分が写した、利恵さんしかありません。スミマセン。
自分は2時間エレキを弾き、ダウン症の方がドラムを叩き続けていました。
午後からは、またまた男子だけすろーの湯に行きました!
まだまだコロナが終息しないので、一人ずつの入浴が続きます.......。
星座のように、既に形が教え込まれているものを崩すと言うのは、非常に難しいですが、今はそんなことを言っている場合ではありませんね......。今日も月曜日から始まる講義に向けての勉強を兼ねたニュースになってしまいました......。
~あえて「日本はどうすればよいのか」という問いに答えるなら、まず「国家」という前提を捨てよ、と言いたい。国防、外交、金融政策は国家が担うとしても、それ以外の領域は国民国家を卒業し、新たな地域国家像を模索すべきである。そうしなければ、21世紀にトランスフォームして繁栄の方程式を手に入れることはできないのだ。~
精神分析だけでなく、時代の流れが社会を否応なしに変化して行くので、柔軟性とかがとやかく言われますね。核兵器なんか使ったら地球が終わってしまうのに、なぜ人間というやつは、不安から逃れられないのでしょうか? やはり、人間は誰でも、生まれた時から病気を抱えているのでしょうか?
第1章 超自我は社会規範かーーフロイト第ニ局所論・再考
第ニ節 『快感原則の彼岸』ーー古くて新しいモデルの必要性
〜新たな考察へ踏み出すに至ったきっかけの一つは、第一次世界大戦によって引き起こされた兵士たちの「戦争神経症」である。この大戦は、一九世紀までの戦争とは次元を異にする恐るべき新世界を人間にもたらした。
その代表が、スピードと強度の空間に生身の人間が曝されるという経験である。急速に発達しつつある科学技術は総力を結集して新兵器を生み出してゆき、それが、かつてなかった身体的かつ心的体験を人々にもたらしたのである。
戦争神経症の患者たちに見られた特徴的な症状は、反復強迫である。元兵士たちは、戦場を既に去っているにもかかわらずは戦場での悲惨な体験を、たとえば夢の形で心的に繰り返す。それはまるで自らを過酷に処罰しているかのようにすら見える。
元兵士たちを突き動かしているもの、それは果たして快感原則に従っていると言えるのだろうか。〜