うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アレクサンダー・テクニークと、ワークショップ打合せと、【興奮を緩和するのに必要な形態は常に身体運動の形をとる。】



 今日は、久し振りに一日休みだったので、名古屋でアレクサンダー・テクニークを教えて頂きに行って来ました。
今回も古典的な、椅子を使ったワークを教えて頂きました。何でも基礎が無ければ、きちんとしたことができません。
 音楽を奏でるにしても然り、作品を作るにしても然り、福祉の現場に出るにしても然りですね。
40回近く教えて頂いていても、頭が悪いせいか(笑)その都度、新しいことが発見できるので、新鮮な感じがずっとあります。
 何か行動に移す時に、自分が慣れ親しんだ形態は首の後ろに力が入ってしまって、押しつぶしてしまっているようです。だから首や肩の凝りが取れないのでしょうか?
先生に首に軽く触れて頂くだけで、力が抜けて(余分な)本当に楽になりますが、帰宅したら、急に張ります(笑)何が原因だか(笑)
 話が逸れましたが(笑)教えて頂いた姿勢で、そのまま栄から名古屋駅まで歩こうと思いましたが、せっかく名古屋に来たので、いつもの如く楽器屋さんで自分では買えない高いギターを弾かせてもらってから、名古屋駅まで歩きました。良いギターで、見つめていたら、店員さんがどうぞとチュウーニングして、保護テープを沢山張って(笑)渡してくれたので、遠慮せずにブルースと、ウィスキーがお好きでしょと、ライオンハートをじっくり弾いてみました(笑)店の仕入れがシビアなのか?良いギターが沢山並んでいました。最近は、アコースティックギターにハマっているので、アコースティックギターばかり弾かせて頂いています。
 名古屋まで歩いたら、暑かったので汗が沢山出て(笑)Tシャツがビシャビシャになりました。本当に暑かったですね!昼食を抜いてへそくりをと思いましたが(笑)涼しそうな喫茶店に入ってしまいました(笑)。





 帰宅したら、親分がワークショップの打合せに行くとのことで、やっぱり不安になり(笑)同行しました。
田島征三さんが、絵本について、どろんこ村さんに来て頂いたときに、デジタル印刷的な物しか売れないのは、おかしいし、本当の芸術に触れる邪魔的なことを言っていましたが、今日の打合せでは、まさしくそんな感じの意見が出ていました。うまい下手ではなく、その人がその手で作ったこそオンリーワンなのに、インクジェットでそのままの絵を印刷したほうが良いなんて、征三さんがいたら(笑)と思うとぞっとしました(笑)
 下手でも自分が作るという事の大切さを教えないから、人の事ばかり羨んだり、妬んだりの連鎖が起きるように思いますし、小羊学園の稲松さんが言っておられたように、人はみんな、平等には生まれて来れない、というのも事実です。腫れ物に触るようなことばかりしていたら何も前に進みませんね......。と少し本の内容とダブるところがあったので、余計に感じてしまいました。どうせ短い人生を生きるのなら、人に遠慮なんかしないで、堂々と自由に生きれば良いのでは?と、今日も思いました(笑)









 本は往きの電車の中と、少し時間があったので、オアシス21のマックでコーヒーを飲みながらと、名古屋駅地下の喫茶店でオムライスを食べながら(笑)読みました。
今日中に読み終えるつもりが、帰りの電車で寝てしまって(笑)第3章が残ってしまいました(笑)。
 まあ、焦って読んでも頭に入らないので、ゆっくり読ませて頂きます。








 


 興奮を緩和するのに必要な形態は常に身体運動の形をとる。フロイトは心的装置にこのような太古的機能形態があることを、外傷神経症、ある種の子どもの遊び、そして転移現象から推論した。最終快感は、第四の研究課題にしておきたいが、ここで外傷的状況を発生期状態instaju nascendiにおいて観察しえたといってもよいのではないだろうか。われわれの被分析者が与えてくれる(性的快感の)情報は残念ながらほとんど身体に関するものばかりであり、心的過程に関する情報はほとんどわずかしか聞くことができない。おそらく太古的な接近困難な層で営まわれるからであろう。そのわずかな資料をまとめるとこうである。緊張が増大する。それが律動的身体運動への衝動を触発する。緊張がますます強まると……どんな犠牲を払ってでもそれから逃れたいと思う、たとえそれが苦痛であっても。……もうほとんどもちこたえられない。……うめかされ、あえがされ、痛めつけられ、さらには悪態までつかされることもあり、パートナーへの攻撃的、暴力的行為になることもある。……絶頂の前の感情は、もうもたない、砕ける、流入してくる、自分が溶けるといった感じだと思う。…。そして最終にやっと穏やかで静かなこれでよいという感情がくる。この穏やかで静かなこれでよいという感情が、快楽の原初形態のように思われる。前駆快感機能はすべてこれを得ようとはげむ努力である。それは確かであって、これでは到達できないときにはじめてその状態は、回り道をとる。しかし、やはり興奮の高まりにはじまり最終快感を経るという道をも追求し、結局同じものに到達する。〜

 〜したがって経済論的見地からみると、最終快感とは二つの相反する努力の統合である。その第一は、生物学的と呼んでよいような、より太古的なものである。これは快楽原則以前の時代からあって、目標は、「いかなる犠牲を払っても緊張から解放されること」であって、必ずしも快楽からもたらすものではない。この努力のモデルとしてはフェレンツィのいう「自切傾向」であろう(トカゲのシッポ切り、エビ、カニの脚抜けのように危機に際し自己身体の部分を切り捨てること。それが耐えがたい緊張を切り捨てることのモデルだというのである――訳者)。もう一つの努力はずっと新しいもので、明らかに心的なものである。その目標は、「興奮をその個人が確証済みの危険ではないレベルに保つこと」であり、興奮の程度を意識的・意図的に自己の責任として引き受け、それから次に興奮を確実に解消する。であり、この機能、いやこの離れ業といおう、これがすぐれて快楽的なのである。 類似の考え方がプッァイファーに見られる。彼もまた二つの「経過型」を区別している。欲動が原始的になればなるほど、もちこたえられる緊張の幅が小さくなり、「刺激と充足とが時間的に同時に起こる」ことにならざるをえない。彼によれば、このような排出の仕方と性器愛との違いは、何か「カタストロフィー的なもの」がその過程に入っているかどうかである。〜