うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、リーダーシップに必要なのは理性より楽観主義と、【最近の社会学理論が、現実は二次的に構成されたということに強調点を置く姿勢を強めていることを考えれば、精神分析と社会学を、個人か社会かという違いを越え?、ラディカルな現実構成主義という姿勢によって架橋するのは必ずしも無理ではないように思われるのである。】

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 お昼は鉄火丼ぶり!皆さん嬉しそうでした!
 

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  午後からは、すろーの湯に男子だけ行きました。お湯がたまるまでブドウとイチゴの様子を見たり、雑草を抜いていました。そろそろ花芽が出て来そうですね。

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 まだまだコロナ禍が収まりそうにないので、個別入浴が続いていますが、その分ゆったりと入ることが出来るので、それはそれでいいのかも知れません。

 

  定性的な見方が必要な時代になりましたね!


 心理学化された社会への、一つの解答なのかもしれませんね。

 〜しかに精神分析社会学との違いは、まず何よりも、焦点を個人にあてるかそれとも社会にあてるかの違いにあるのかもしれない。そのような観点に立てば、精神分析社会学の架橋は、社会という大きな世界が個人という小さな世界の中へいかにして内面化されるのかという論点が中心とならざるをえないだろう。

 かし、これら二つの学問が現実というものを二次的と見るかそれとも一次的と見るかの違いが重要性を帯びてこざるをえない。最近の社会学理論が、現実は二次的に構成されたということに強調点を置く姿勢を強めていることを考えれば、精神分析社会学を、個人か社会かという違いを越え?、ラディカルな現実構成主義という姿勢によって架橋するのは必ずしも無理ではないように思われるのである。