うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

梨園と、【精神病人格と非精神病人格の識別】


今日は色んな所に行きましたので、ちょっと疲れました....。
早朝に小島に行き、大阪の母親と、京都の友人のお母さんが亡くなったので、御霊前用に梨を送って来ました。
 写真は住所を書いている間に、親分が写してきたものです。
立派な梨園ですね!
 梨園と言えば、違う意味を思い出しますね!
梨園(りえん)とは中国・唐の宮廷音楽家養成所である。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。』(ウィキペディアより)
 その足で、副理事長のいる、高浜まで梨を持って行って来ました。
帰り際、年賀状をまた200枚頼んだとのことで、こちらに来る時に(まだ先ですが)持って来てくれるとのこと。お盆が過ぎたら、あっという間に年末年始が来そうで怖いです....。

 明日から9月ですね....。



 帰宅してから、少しだけ本を読ませて頂きましたが、やはりビオンは難しい.......。
でも、非精神病人格に働きかけないといけない状況も無きにしも非ずなので、頑張って読みたいと思いました。



3.精神病人格と非精神病人格の識別
                       ウィルフレッド・R・ビオン


 この論文は1955年10月に英国精神分析協会で最初に発表され、1957年の国際精神分析誌、38:266-75ではじめて出版された。

さて、私が精神分裂病者の人格に本質的なものとして列挙した特徴に戻ろう。これらはその所有者がそれほどそうした部分を持ち合わせていない場合とはきわめて異なった方法で妄想−分裂態勢と抑うつ態勢を進み抜けるだろうことを確信させるある基本部分を形成する。その違いは、こうした特質の組み合わせが人格の細かい断片化、特にフロイトが現実原則の命令によって作動すると述べている現実知覚装置の細かい断片化と、そして人格のこれらの断片の外界対象群へのひどく過剰な投影とをもたらすという事実によって決まっている。

先に取り上げたフロイトメラニー・クラインの理論をここでもっと詳細に検討せねばならない。1924年の「神経症と精神病」の論文の中でこの公式を引用しながら、フロイト神経症を精神病から区別する特徴のひとつを次のように定義している、すなわち「前者において自我は、その現実への忠誠からイド(本能生活)の一部分を鎮圧する。しかるに、精神病においては、同じ自我がイドに服して現実の一部から引きこもる」(Freud 1924)。 フロイトが自我の現実への忠誠を語っている時、現実原則体制とともに生じていくと記載した発達のことを彼は言っていると私は思う。彼は「その新しい要求が心的装置において一連の必要な改変をもたらすのであるが、知識が不十分で不確かなためそれについては私たちはおおまかにしか述べることができない」と言った。


私は、すくなくとも分析実践のなかで出会う感触からは、自我が完全に現実から引きこもっているとは思わない。現実とのその接触は、患者の心や行動での、現実あるいは現実についての知覚を破壊しようとしたり、そのようにして生でも死でもない状態を達成しようと企む万能的な空想の支配によって隠されている、と私は言いたい。現実との接触は決して完全に失われたわけではないので、私たちが神経症と結びつけることになじんでいる現象が決して欠けているわけではなく、有意義な進展がみられる時に精神病性の素材の中に紛れて出現し、分析を複雑にする。自我が現実との接触を保ち続けるという事実は、非精神病人格が精神病人格によって不明瞭にされながらもそれと並行して存在するとのことによる。 私の第2番目の修正は、現実からの引きこもりは幻想illusionであって事実ではなく、そして、フロイトによって示された心的装置に対抗した投影同一化の配備から生ずるものであるとのことである。この空想はきわめて優勢なので患者にとってはそれはもはや空想ではなく事実であるのが明白であり、患者は、自分の知覚装置が微細な断片に分裂し、そして彼の対象群の中に投影されているかのようにふるまうのである。 これらの修正の結果、私たちは次の結論に達する。すなわち、たとえば間違いなく精神病であると言えるほどの患者では、その精神の中に、精神分析が私たちになじみ深いものにしてくれたさまざまな神経症機制の犠牲となる人格の非精神病部分と、はるかに支配的なので反対の極に存在する非精神病部分の影を薄くしてしまう人格の精神病部分とが含まれている。 フロイトが述べた現実への憎しみに付随するもののひとつは、メラニー・クライン(Klein 1946)が妄想−分裂期の一部として記述した乳房へのサディスティックな攻撃という幼児の精神病的な空想である。この時期には精神病者は彼の対象群を、そしてそれと同時に、彼が憎んでいる現実を彼に気づかせる彼の人格の部分すべてを、非常に小さな断片に分裂させることを私は強調しておきたい。というのは、このことこそが彼は自分の対象群あるいは自我を修復できないという精神病者の感情に実質的に寄与しているからである。これらの裂いていく攻撃の結果、自分自身と他者への直感的理解の基盤をもたらすはずの人格のこれらすべての特性がその始まりから危うくされる。フロイトが後の段階で、現実原則への発達的な反応であるとして記載した機能すべて、すなわち、感覚インプレッションsense impressionという意識、注意、記憶、判断、思考などは、人生の始まりにおいては、これらはひどく未発達な形であるが、それらに対して狩り出される。それは、これらの機能が細かく断片化され、それから次に、人格から排出され対象群を貫通するあるいは包み込むことをもたらすサディスティックで裂けていき、骨抜きにしてしまう攻撃に対してである。患者の空想の中では、自我の排出された小片particlesは、それが外界対象によって包み込まれようと外界対象を包み込もうといずれの場合でもひとつの独立した制御できない存在となる。そしてその小片はそれらの機能を働かしつづけるが、それはあたかも受けている苦行がただ単にそれらの数を増やし、また小片を放出した精神に対する敵意をかきたてるのに役立っているかのごとくである。その結果、患者は自分自身が奇怪な対象群に取り囲まれているように感じるが、その性質についてこれから述べたい。