うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

帰ったらねこさんが.....と、【しかし、被虐待児との臨床の仕事においては、通常子どもたちの方が、専門家たちの心の奥底を暴露することに成功するのです。】


 朝、会計事務所さんに行って、ファミマで本を読み(笑)、体を追い込んで、帰ってきたら、ねこさんが廊下でぐったりしているではありませんか....。携帯で写真を撮っても起きないので、エアコンを入れましたら、しばらくしたら動き出しました。
 風がありますが、気温は高いですね....。
自転車での移動は、動いている時は良いのですが、止まると汗が滝の様に流れてきます......。
 熱中症にお気を付けください!

 常勤換算をやってから、夜勤に入ります!


 アップは、昨日読んだ箇所ですが、性的な虐待を受けた方だけではなく、障がいをおもちの方全般にも意識して支援をしないといけない記述に思いました。

 下記は、本当にそう思います。

『しかし、被虐待児との臨床の仕事においては、通常子どもたちの方が、専門家たちの心の奥底を暴露することに成功するのです。』






第12章 子どもの性的虐待――想起する必要性と忘却する必要性

 〜障害が神経症的なレベルで人格に影響を与えているようにより軽度の心的外傷を受けた患者は、心的外傷に忘却するために想起する必要があるかもしれません。これに対して、心的外傷がより重篤で慢性的な、より深い損傷を受けた子どもたちは、心的外傷を想起するためにまず忘却する必要があるかもしれません。 次に私は、子どもの性的虐待からの回復の過程における段階のいくつかを見ていきたいと思います。回復は長くゆっくりとした過程である可能性があります。特に、幼いときに、慢性的です虐待されたことのある子どもとっては、そうなのです。子どもによる虐待の暴露(disclosure )は、虐待からの保護に繋がるべきです。しかし、治療どころか、暴露の過程自体が、虐待のない状態がどんなものかほとんど分かっていない子どもを相手に始められている可能性があります。暴露によって何かが変わり解決されたという社会の持つ感じは、当の子どもには共有されていないかもしれません。虐待がその子にとってそしてその子に対して何を意味したのかは、私たちにとっての意味と大変異なるかもしれないのです。例えば、その子どもは、情動的にも認知的にもあまりにも鈍磨していて、何ごともおよそ意味を持たなくなっているのかもしれません。あるいは、その子自身堕落してしまっていて、虐待に魅惑されるようになったり、自分自身虐待者になるかもしれません。その虐待よりも虐待者をはるかにもっと恐れるかもしれません。あるいは、虐待する人物へ深い愛情を感じているかもしれませんし、この愛情は虐待への恐れや嫌悪よりも強いかもしれません。あるいはこれらの困難全てを有しているのかもしれません。いずれにせよ、保護し正義、世話といった、私たちがもっている概念は、その子にとってまったく非現実的であるかもしれません。たとえ子どもの心の奥底においてのみであろうとも、この問題概念を当然のものと見なせるのが全ての子どもの権利であるのは確かですが、このような子どもとの心理療法はときとして、それら概念の不在に留意することから最初は始めなければならないかもしれません。



しかしながら、心的外傷という概念そのものがもっているまさにそれ以前の心的外傷のない発達がある程度あったことを仮定しますし、非虐待児の場合、虐待のない状態という概念で自尊心や自己価値感という概念の存在を仮定します。不幸なことに、カプセル化よりももっと深刻な三番目の主要な道筋というものが存在します。それはともかく心的外傷が人格全体を色づけ始める場合です。



実際は、慢性的に性的に虐待された子どもたちは、その出来事が終って相当経ってから治療者のところにやってきます。彼らの状態には、かなり異なった種類の治療が必要かもしれません。それには、失ったもしくは抑圧された記憶を再構成し明らかにすることに依拠する古い精神分析論(Strachey 1934)よりも、現代精神分析の治癒要因の定義がより密接に関わっています。私が提起するのは、相起の理論に対比される忘却の理論に近いものです。ただし、これは粗雑で実際過剰な偽りの単純化であることには私も気づいています。
 この新しい考えについては、以前の章ですでに概略を述べました。治癒過程に関する古い理論は、防衛、葛藤は解決という概念に由来しています。例えば、誇大性は不安定さへの防衛として、躁的状態は抑うつへの防衛ともかく、また勇敢さは恐怖への防衛と見なされる可能性がありました。苦痛な真理には「直面」する必要がありました。被虐待児が虐待を想起するのを助けることで「虐待と折り合いをつける」のを助けなければならないという考えは、部分的にはこのような一連の考えから来ています。精神分析は、ある著者が後期ロマン主義運動の「曝露傾向(unmasking trend)」と呼んだものに、多くを負っていますし、このような曝露行為は、多くの抑制され控えめな人々に多大の安堵と解放を与えてきたのです。しかし、被虐待児との臨床の仕事においては、通常子どもたちの方が、専門家たちの心の奥底を暴露することに成功するのです。しばしばそのような子どもの援助者は、人間悪や自己中心性や貪欲や肉欲について子どもにほとんど教えることがありません。援助者の課題は、少し異なったものです。